6 / 56
第1章 四月の魚 4.二度目の遭遇
おなじ匂いだ。昨日病院に蓮を迎えに行ったとき、伊吹の隣を風のように駆け抜けていった匂い。
建物をみあげていた伊吹の鼓動が早くなり、背筋がびくっと上下する。ふりむくと黒いスーツがみえた。ほんの五メートルほどのところに立っている。栗色がかった髪のしたに驚いたようにまるく見開かれた黒い眸がある。まっすぐ伊吹をみている。
昨日病院ですれちがったときはもっとカジュアルな服装だったが、黒を着ているせいか細くみえた。明らかに伊吹よりも年下だ。二十代前半だろうか。スーツの背中から腰にかけての線に自然に目がいったとたん、突然伊吹のからだに――下半身に力がみなぎった。伊吹はハッとしてぎこちなく顔をそむけた。相手はオメガだ。こんな風にみつめたら誤解されかねない。
どうしたらいいかわからず、コホン、と咳払いをした。いかにもとってつけたわざとらしさで、恥ずかしくなるが、どうしようもない。向こうも困ったような顔をしてすこし後退った。
自分も相手も、道端で出くわした見知らぬ犬同士のようだ。近づくべきか遠ざかるべきか、距離をはかりかねている。そう思ったとたん伊吹は可笑しくなった。自分はいったい何をしているのか。と、そのとき相手がたずねた。
「……関係者の方ですか?」
距離は三メートル。さっきより近づいている。自分と彼、どちらから近づいたのだろう。声は伊吹の耳に柔らかく届いた。キンと頭に響く蓮のそれとは種類がちがう。匂いとおなじくらい甘く感じる。
待て、おまえはどうしてそんなことを気にしている? むこうがたずねているのはその建物についてだ。
「あ、いや……」
伊吹は返事をためらい、ためらった自分を変だと思った。今日は仕事用のスーツではなく、ジャケットとスラックスのラフなスタイルだが、腕を組んで見上げる様子がただの通りすがりに見えなかったのかもしれない。それに実際、まったく無関係ともいいきれない。
目の前にある施設はあと一カ月でオープン予定のアート・コンプレックス〈プラウ〉である。大小ふたつの劇場にスタジオやギャラリーを備え、テナント部分にはカフェバーやレストラン、ハイブランドのブティックも入ると聞いている。
妻の蓮が運営財団の理事長におさまったというだけの理由で伊吹はここを見に来たのだった。宮久保家の人々にどんな状況かたずねられたとき、躊躇せず答えられるように。とはいえ異動先の分室から歩ける距離でなければ、休日にわざわざ来なかっただろう。
「知りあいが関わっているんだ」
「そうなんですか。立派な建物ですよね。劇場なんでしょう?」
相手がそういったとき、距離は二メートル。伊吹の横に立ってビルをみあげている。あまり嬉しそうな口調ではなかった。
「このあたりにお住まいの方ですか?」
伊吹は真新しい建物をみつめたまま用心深くたずねた。会話をしているせいか、それとも慣れてきたのか、さっきのおかしな衝動が消えたのに安堵する。
「南側に職場があるんです。人の流れ、変わりますね」
「ああ、そうだろう」
伊吹はまさしくその方向から歩いてきたのだった。北側が〈プラウ〉をはじめとした再開発で整備されているのにひきかえ、南側には古くからの商店や飲み屋街が混然としている。
「でも向こう側は雰囲気がよかった。さっき歩いてきたんだ」
伊吹がそういったとき、顔を向けてもいないのに相手が自分をみているのがわかった。誘われるように横をみたとき、目があった。蓮とおなじくらいの背丈で、黒い眸がやけに大きくみえる。
昨日も病院で会ったね――喉元まで出かかった問いを伊吹は飲みこみ、さりげなく視線を外した。向こうはまったく知らない他人なのだから、黙ってここを離れればいいだけだ。頭の隅で理性がうるさくがなりたてるのを聞きながら、軽い目礼をしてその場を去った。
自分をひきつける磁場にとらわれないよう、伊吹は早足で駅にむかった。駅の南北をつなぐ通路はかなり混雑していたが、外に出るまで歩調をゆるめず、大股で人波をかいくぐる。駅の南側、線路にそって伸びる細い通りには両側に小さな飲食店がびっしり立ち並んでいる。そこを抜けて道なりに線路から離れると、一転して静かな住宅街があらわれ、個人経営の商店がならぶ通りがその中央をつらぬいている。
商店街のひと通りはそれほどでもないが、なぜか抜群に感じがよかった。センスを感じさせる店がまえの雑貨屋やヘアサロン、洒落た小料理屋、こぎれいな惣菜屋、フラワーショップ、書店にビストロとならんでいて、そのあいだに路地が誘うように入口をあけている。クリーニング店や和菓子屋といった商店も雰囲気がある。建物はどれも古いが、経営者は世代交代しているのだ。
つきあたりには神社があり、掃き清められた境内をぬけると大きな通りに出た。ここまで駅から徒歩二十分というところで、線路がまた近くにある。車の往来はそこそこ多く、左右には新しいマンションと古い建物が混在している。
あたりをみまわした伊吹の目は時代を感じさせるデザインのビルディングにひきつけられた。ガラス扉の上の木の看板には墨文字で〈遊屋〉とある。歩道に向かって小さな黒板が立てかけられ、「スコーン」「サンドイッチ」の文字がみえた。カフェだろうか。
通りを渡ってさらに進むと堤防沿いに青果の卸市場がみえ、ゆるい坂をのぼると川を渡る橋がある。四月から異動になった伊吹の勤務先は橋を渡った先にある。
川を境界に行政区が変わる。そのせいだろう、橋を渡ると雰囲気はがらりと変わった。道幅は広いが、左右は殺風景な灰色になり、川向こうの居心地よさはどこにもない。小規模な事業所や町工場、資材置き場に倉庫、古いアパート、それに中層マンションが無秩序に並ぶだけだ。
このぱっとしない「川のこちら側」を活性化させる官民協同事業が四月からの伊吹の仕事なのだった。
莫大な利益がみこめるものではなかったが、伊吹にとってはやりがいのある仕事だ。分室は二階建てのこじんまりした建物で、駐車場はがらんとしている。本社のように二十四時間駐在する守衛もいない。おかげで休日でも気兼ねせずに車が止められる。宮久保本家は隣県だが、せいぜい三十分ほどで着く。
伊吹はふだん旧姓の三城を名乗っているが、本社の人事は伊吹が宮久保家の人間だと知っている。とはいえ、宮久保家で伊吹が何ほどの力も持たないことも知っているにちがいない。
今回の異動はさまざまな配慮を感じるものだったが、三十歳の伊吹にとって昇進であることに変わりはなく、不満はなかった。川のこちら側は殺風景だが、橋を渡れば悪くない街がある。仕事帰りに立ち寄ってもいいかもしれない。
そうすればまた――彼に会えるかもしれない。
運転しながらふと頭をよぎった考えに伊吹はびくりとした。
車は坂をのぼっていく。宮久保家の屋敷は高台にある。白い塀に囲まれた城のような屋敷だ。門を入ってもしばらくは道がつづき、車寄せでは使用人が待っていた。伊吹はガレージに目をやり、蓮の車――といっても、彼は自分で運転しないのだが――がないのを見届けた。
結婚して丸二年が過ぎても、妻と休日をすごしたことは数えられるほどしかない。失望しなかったとはいわないが、最初のうちだけだった。伊吹にとっては三城の家も暖かい場所ではなかったからだ。妻の蓮にとって血のつながった家族や武流のような親族は安心できる存在らしいが、伊吹はちがった。例外は祖父母の家ですごしたときだけだが、ごく短いあいだでしかなかった。
自分がアルファに生まれたせいか。十代のころはそう思ったこともあった。伊吹の両親、伊織と瑠璃はどちらもベータである。祖父は父方も母方もアルファだから、ベータのカップルでもアルファが生まれることはある。しかしベータの弟に対するときのような温かさを両親はけっして伊吹にみせなかった。
だからといって、今はもうどうということもない、と伊吹は思う。
たぶん自分は冷たい人間なのだろう。三城家だろうが宮久保家だろうが、伊吹を傷つけることはできない。傷つくような心がないのだから。
――それなのに、いま感じているこれは何なのだろう。
〈プラウ〉の前で遭遇したオメガの匂いを思い出したとたん、伊吹の鼓動はまた早くなった。
ともだちにシェアしよう!