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第1章 四月の魚 5.糸の伝説
僕はへんだ。どうして顔が熱いんだろう。
ひょっとして三回忌にいた親族の誰かが風邪でもひいていたとか? まさか、こんなに急にうつるわけがない。
七星は電車のつり革を握ったまま考えをめぐらせていたが、人差し指だけを上げたり下げたりしているのに気づき、つり革をはなした。電車がガタンと揺れて、到着のアナウンスが響く。
ほんとうのことをいえば原因はわかっていた。単に認めたくなかっただけだ。あのアルファだ。あの匂い――あれのせいだ。
出会いがしらの香りが気になるなんて、そんなの、ありえない。
しかも自分から話しかけるなんて。
顔が熱いのはそのせいだ。ほんとうに、どうして話しかけてしまったんだろう? 向こうもびっくりしていたじゃないか。知らん顔して駅に戻ればよかったのだ。
とはいえ、かのアルファがあそこにいなかったら七星も絶対に話しかけたりはしなかっただろう。駅北側の新施設は劇場やギャラリーになるという噂だった。〈新創造アート・シティ〉だったか、そんなキャッチフレーズで北側一帯を盛り上げる再開発の中心である。名族の肝いりで潤沢な予算が投じられ、どこかの美大のキャンパスも北側に移転するという。
それだけ聞けば、七星の勤め先であるユーヤのようなアート関連のNPOはこの動きを歓迎してもよさそうなものだった。何しろ駅の南側ではかれこれ二十年以上、地元のアーティストが中心になって、地域の住人とも協力しつつ地味に活動を続けてきたのだ。とはいえ商業的な成功とまるで縁のない界隈だから、北側の開発がどう波及するか、遠巻きに見守る雰囲気ではあった。
ところが北の再開発は幹線道路で連絡している駅南側のはずれに思わぬ影響があった。七星はくわしいことを知らないが、二十年続いたユーヤが秋までに退去するよう迫られているのはこのためらしい。
そんな事情が頭にあれば新しい建物もうらめしくみえてくるし、腕を組んで眺めていたアルファはただの通りすがりに思えなかった。いったい七星をなんだと思っただろう? 馬鹿なことをしたものだ。
(七星君みたいなオメガがいたら声をかけてくる人もいるでしょう?)
「うるさいな。逆だよ。悪いか」
電車を降りて歩きながら、三回忌の席ではいえなかった文句をつぶやく。彰が死んでから七星のひとりごとは確実に増えていた。
もともとひとりごとの多い子供で、自分が考えていることやこれからすることを口に出して確認しないと気がすまないたちだった。いまもやるべきことを口に出して確認することがよくあるが、これはそうしないとわからなくなるような気がするから。癖が半分、実用半分というところだ。
彰には子供のころ、ひとりごとが多いと笑われたことがある。七星は彰のような、一を聞いて十を知るようなタイプではなかった。暗記も苦手で、自分で納得がいくまで理屈をたどらないと覚えられない。
(いいんだよ、七星はそれで)
彰はよくそういった。子供のころはなぐさめられていると感じてほっとしたものだが、いつのまにか七星はそう思わなくなった。
勤務先からは四駅、そこから自宅マンションまでは徒歩十分。街灯づたいに歩くうち、見知らぬアルファに出くわしたことは七星の意識からしだいに薄れた。彰がローンを組んで買った住まいは一階の角だ。小さいながらも庭つきで、玄関ドアに通じるポーチは植えこみに隠れている。
「ただいま」
玄関に入ったとたん、誰もこたえないのに七星はいまだにそういってしまう。廊下のつきあたりが広いLDKで、キッチンの横には四人用の食卓テーブル、庭に面した窓の横手に大画面テレビ、ソファセット。反対側には畳を敷いた三畳の小上がりもある。部屋はほかにフローリングの洋間がふたつ、それに真四角のウォークインクローゼット。
高級マンションといえるほどではないが、彰がここを買うと決めたとき、七星は分不相応ではないかと思ったものだった。でも彰は七星より三歳年上で勤務先は上場企業、若手でもそれなりの給料をもらっていたし、義父の援助もあったので、七星のためらいを気にしなかった。彰が死んでローンは保険で完済され、ここは七星が相続した。ひとりで住むにはやはり分不相応な家だった。
七星は上着を脱ぎながらクローゼットの扉を足で押し開ける。スーツをハンガーにかけ、スウェットに着替えているあいだも、彰のスーツがゆらりとゆれる。影のようだと七星は思う。
大学に入ったころから彰はファッションに凝りはじめた。壁際にずらりとならぶ靴箱の中身も彰がのこしたものだ。ブランドもののブリーフケースや時計は照井の親族に形見分けしたが、スーツや靴のほとんどはそのままだ。
彰が生きていたときは、クローゼットに入ったとたん彰の匂いに包まれて、夫がすぐそばにいるような気がしたものだった。でも彰が死んでしばらくすると、クリーニングに出してもいないのに匂いはどんどん薄れてしまった。少なくとも七星が感じていたものは、彰が死ぬと消えてしまった。
生きている人間の匂いは本人がいなくなると風化するらしい。
犬だったら今も彰の匂いがわかるのかもしれない、そう思ったこともある。それともオメガが〈つがい〉に感じる匂いは、犬が嗅ぐ匂いとは別物なのか。
キッチンに行ったが、炊飯器は空だった。米を炊くのを忘れていたのだ。どうも最近こんなことが多い。七星はストッカーをのぞきこみ、パスタを茹でるか悩み、結局インスタントラーメンの袋を取り出した。チャーシューのかわりに鶏肉を焼き、卵をゆで、できあがったラーメンにのせる。葱を散らしてリビングのローテーブルに運ぶ。
テレビをつけたのはBGMになる音がほしかっただけで、とくに見たい番組があるわけでもない。ラーメンをすすりながらぼうっと眺めていると、今期のドラマの番宣がはじまった。また〈運命のつがい〉だ。
今度は七夕伝説がモチーフらしい。オメガの織姫とアルファの牛飼いが天帝に引き離され、会える機会は一年に一度、という昔ながらの伝説と現代のカップルのオーバーラップだ。赤い糸でつながった運命の絆。
どいつもこいつも「運命」が好きだから。
そう思ったとたん昨日と今日、二回も出くわした男の顔が頭にうかび、七星の喉はへんな音を立てた。軽くむせてしまい、あわてて水を飲む。背格好や顔立ちより、強烈に覚えているのは匂いだった。なんとなく近づいて……話しかけてしまったのもあの匂いのせいだろうか。ひどく甘い香り。吸いこむだけで落ちつかなくなるような……。
ああもう、なんなんだ。肘がテーブルに勢いよくあたり、ラーメン丼をひっくり返しそうになって、寸前で防いだ。やっぱり僕はおかしい。ヒートが近いのか?
スマホをタップしてアプリをひらく。性周期や体調をアプリで記録するのは七星の世代のオメガにとっては常識だ。アプリにはカウンセリングや医療相談へのリンクもあるし、ヒートの時期が近づけばカレンダーに近隣の〈ハウス〉のイベント案内が届く。その気があればマッチングアプリとの連携もやれる。マッチングアプリでは、アルファなら登録時に身元の保証が必要だが、オメガはその必要がない。
やっぱり、ヒートは二カ月近く先だ。
七星はアプリを閉じたつもりだったが、しらずに広告のリンクを叩いていたらしかった。画面にあらわれたのは香水のCM、TEN-ZEROの新作である。
その直後、今日のことが腑に落ちた。
そうか、香水だ。きっと、たまたま僕が敏感に感じるような……香りをつけていただけにちがいない。
急にほっとして七星はソファに体をのばした。とはいえ、つけていた香水ひとつで話しかけてしまう気になるなんて、それはそれで怖いことではある。
――だけどあの人には〈ハウス〉でみかけるアルファみたいに、いかにも誰か探している、という感じはなかった。落ちついた雰囲気だったし……それにしても昨日と今日、二日も続けて会うなんて。いや、すれちがっただけではあるけれど。
(偶然なら二回は会える。でも三回会えば運命だ)
彰は事故にあうすこし前、そんな話をしていた。
たしかに都会でこんな偶然は三度もつづかないものだ。
「今日は七星君が当番なんだね」
翌日の月曜日、七星はユーヤのカフェカウンターに立っていた。あわてて事務用のノートパソコンを閉じると、浅黒く彫りの深い顔がにっこり笑って、トレイに札を一枚置く。
「加賀美さん! いらっしゃい、魚居さんに用ですか?」
「ああ。その前にコーヒーをもらおうと思って」
加賀美は六十がらみのアルファ男性、魚居の古い友人である。時たまユーヤに来て気さくに話していくので、七星もすっかり顔なじみだ。加賀美家は昔から芸術家のパトロンとして知られている名族だし、以前魚居がちらっともらした話によると、ユーヤを創設したときからの支援者でもある。
「じゃあ事務所まで持っていきますよ」
「いや、かまわないよ。ここで待とう」
昼どきとはいえ、カフェスペースにいるのはここを仕事場がわりにしている常連ひとりだけだった。カフェといっても劇場とギャラリーのおまけみたいなもので、出している軽食も近所のオーガニックベーカリーから仕入れたものだし、駅から遠いので通りすがりの人が立ち寄ることもあまりない。
知っている人にとっては穴場のようなスペースだが、公演もイベントもない今日のような日は閑散としている。でも七星にいわせるとこれは嵐の前の静けさだ。三月まで専任で切りまわしていたスタッフが急にやめてしまって、一時は閉めようかと話していたくらいだった。
「魚居さんに用事って、移転の話ですか?」
コーヒーの紙コップに蓋をしながらたずねると、加賀美は目だけでうなずいた。
「それもあるが、プラウのオープンが本決まりになったようでね」
「プラウ? 北側に建ってる劇場ですか?」
「ああ。劇場だけじゃない、ギャラリーやテナントも入る複合施設だよ。運営財団はアーティストに独自の助成制度も考えているそうだ」
「それってユーヤにもいいことがあるやつですか?」
思わず七星はたずねかえしたが、加賀美はわずかに肩をすくめた。他の人間がやればわざとらしくみえそうだが、名族の貫禄なのか、そうは感じない。
「さあ、それはどうかな」
「昨日外からのぞいたんですけど、やけに立派ですよね」
「宮久保家が噛んでいるからね。日程が決まればここにもオープニングの案内が届くと思うよ」
「うちにですか?」
「さもなければもぐりだろう。この辺が街歩きガイドに載っているのはユーヤの功績もあるからね。コーヒー、ありがとう」
加賀美は紙コップを手にカウンターを離れ、出入り口の向こうにある事務所へ行きかけたが、突然足をとめた。いれたばかりのコーヒーの残り香をぬうように甘い香りが漂ってきて、七星も思わず手をとめた。
「失礼ですが――加賀美光央さんではありませんか? 先日の会合でご紹介いただいた……?」
「おや? これは奇遇だ。宮――」
「三城でけっこうです。ふだんは通称を使っていますので」
よく聞こえなかったが、おなじ声だと思った。
なによりもおなじ香りだ。また?
七星の頭は混乱した。いや、気のせいだ。そうでなければ誰かが何か仕組んでいるとか? だってこれで三日連続だ。
頭をふっても甘い香りは消えてなくならない。それどころかもっと強くなる。カウンターの前に男が立つ。今日はきちんとしたスーツ姿だ。ネクタイを締めている。
「いらっしゃいませ。ご、ご注文は?」
舌が途中でからまって言葉がうまく出なかった。七星はうつむいたが、返事はなかなか聞こえない。注文に迷っているのかと顔をあげたとたん、途方に暮れたような眸と出会った。
ふいに途惑っているのが自分だけではないとわかった。むこうもおなじだ。
「……カフェラテと、チキンピタサンドを」
「カフェラテはホットで? それとも」
「ホットでお願いします。昨日会いましたよね?」
男がついでのようにたずねた。
七星の肩の力が急に抜けた。安心したというのではなく、自分が幻覚をみていないとわかったせいか。小声で聞き返してしまったのもそのせいにちがいない。
「……昨日と……一昨日、病院でも会いませんでしたか?」
男の口元がふっとゆるんだ。
「ああ。なんて……偶然だ」
「偶然は三度もつづかないそうです」
こんなことをいうつもりはなかったのに、言葉は口から勝手にこぼれた。男はかすかに眉をあげた。
「では何?」
「……運命とか。ここに来てもらうための」
ふたりは顔をみあわせて、同時に笑った。
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