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第1章 四月の魚 6.星の幻惑
「……運命とか。ここに来てもらうための」
三日連続で出会った彼――オメガの若者が伊吹をみる。目をみかわしたとたん笑ってしまったのは冗談めかした口調のせいか。相手のひたいでくせっ毛が揺れた。黒い目は昨日会った時とおなじくらい印象的だった。
「お席までお持ちしますから、お好きなところに。見てのとおり空いていますから、選び放題です」
「ありがとう」
伊吹はふりむいてカフェをみまわし、窓に近い席に腰をおろした。ほかの客は伊吹から対角線にあたる隅のテーブルにいるひとりだけ。ノートパソコンや書類を広げているところをみると、長居しているらしい。
伊吹は時計をみた。異動一日目の午前中は挨拶や書類の確認におわり、午後は本社に顔を出すことになっていた。職場の周囲にコンビニも喫茶もないのは昨日気づいていたが、今日行ってみると分室のメンバーは伊吹以外の全員がランチを持参していた。役所の出向者や派遣社員も含めて六人しかいない小さな所帯だとそんなこともあるらしい。
前任の室長は宅配弁当を頼んでいたらしく、デスクの引きだしに注文票が入っていたが、伊吹は昼になると外へ出た。春霞の空のした川を渡り、昨日おなじルートを通った時も目に入った〈遊屋〉の看板まで歩いたのだ。
ガラス扉をあけ「二階カフェ営業中」のプレートにしたがって階段をのぼり、加賀美光央に出くわした瞬間は正直ひどく驚いた。しかし、柔らかい光がさしこむ椅子に腰をおろした今は不思議と気持ちが落ちついている。カフェの奥の壁には写真集や画集がならぶ書棚があり、その横には大きなコルクボードが取り付けられていた。ボードにはカラフルなデザインのポスターやフライヤーが貼られ、シンプルな空間のアクセントになっていた。
この建物は何なのだろう。加賀美家当主が訪れているからにはきっと単なるカフェではない。
伊吹が加賀美光央と知りあったのは妻の同伴で出席した名族の会合である。半年ほど前のことだった。蓮は〈プラウ〉運営財団の理事長になると決まってから、それまで敬遠していた名族の社交活動にがぜん積極的になっていた。文化芸術協議会の委員を姉から引き継いだのもその一環で、会議のあとの懇親会には伊吹も連れて行ったのだ。
蓮は公式な場では伊吹と仲睦まじい夫婦としてふるまう。演技というわけでもなく、生まれながらの名族にとってそんなふるまいは自然なものらしい。
伊吹が加賀美に紹介されたのはその時だったが、たいした話はしなかったし、たった今この場所で出くわすまではほとんど忘れていた。しかし今はひどく好奇心をそそられている。
それにここには――彼がいる。
伊吹はカウンターの方へ目をやった。たしかに彼は昨日、駅の南側で働いているといっていた。でも、それがここだとしたら――
コーヒーの香りに混じって蜂蜜に似た甘い香りがした。
――たしかに偶然にもほどがある。
「お待たせしました」
声とともに彼がやってくる。伊吹より年下のオメガ男性だ。華奢な腰は黒いエプロンに半分隠れている。自分でも意識しないうちに目線が動いていることに伊吹は当惑し、いそいでたずねた。
「ここは何の施設なんですか?」
トレイの上のピタサンドとカフェラテのカップにこれといった特徴はない。エプロンの彼はあっさり答えた。
「ユーヤ、というんです。一階はギャラリーで、今は次の展示の用意やってますけど、地下はホールです。お芝居とか演奏とか」
「昔からあるんですか?」
「できたのは二十年くらい前です。僕が入って三年くらいですけど」
「そんなに? それはすごい」
とたんに目の前の顔がほころんで、頬に小さなえくぼがうかんだ。
「よかったらこれ、どうぞ。四月の予定とか、このへんの商店街の案内とか、いろいろ載ってます」
淡いピンク色の唇から伊吹は目をそらし、テーブルに置かれたパンフレットに目をやる。
「僕、ほんとはギャラリーや下のホールのスタッフなんです。慣れてなくてすみません」
素朴な口調のせいか、ふいに気が楽になった。顔をあげるとまた目があって、どちらからともなく微笑む。
なぜか相手も伊吹とおなじようにリラックスしているような気がした。蜜のようなこの香りのせいだろうか? ずっと前から彼を知っていた気がする。
実際に会うのは三回目だというのに。
「ごゆっくり」
オメガの若者はそういってカウンターの向こうへいった。伊吹はピタサンドに手をつけたが、食べているあいだも視線は勝手にカウンターの方へさまよってしまう。ひとりの食事は数分で終わらせるのが常なのに、必要以上に時間をかけて咀嚼し、時計をみて我に返った。
「あ、そのままでいいですから」
立ち上がるとカウンターから声がしたが、伊吹はかまわずトレイを運んだ。オメガの若者の頬にまたえくぼがうかんだ。そのときだ。
ふいに強烈な衝動が伊吹を襲った。そんなものを感じたのははじめてだった。自分の周りの世界がぐるりと一回転したような気分だった。
――触れたい。
伊吹はあわてて目を瞬き、自分自身をごまかすようにいった。
「ここ、夜もやってますか?」
「カフェは九時までです。イベントがある日はたまに貸切になります」
なるほど。うなずきかけてふと、最初にすれちがった時のことを思い出した。
「そういえば、一昨日の病院……」
最後までおわらないうちに相手は伊吹がいわんとしたことを察したらしい。
「あ、ここのスタッフが今入院してるんですよ。足の骨折っちゃって。そちらもお見舞いだったんですか?」
「いえ、あの病院で妻が健診を受けていて、迎えに行ったので」
ふと相手の眸に落胆の影がみえたような気がした。何を馬鹿なことを考えている? 伊吹はおかしな方向へ流れそうになる自分の思考を内心で叱った。
「とても居心地のいいカフェですね」
それは本音だったが、伊吹の耳にはやはり自分自身をごまかしているように響いた。相手はカウンターの向こうでうなずいた。
「今日みたいに何もない日はすごく空いてるんです。よかったらまた来てください。あ、お得なコーヒーチケットもありますよ」
そのとたん、考えるより前に伊吹の口は動いていた。
「それ、ください」
「え?」
「川を渡ったところが職場なんですが、近くにコーヒーを飲めるような場所がなさそうだから」
「ほんとうに? 一回で買ってくれる方、初めてですよ」
目の前の顔にまたえくぼが浮かんだ。伊吹の胸のなかに暖かい風が吹いた。なんだこれは? これまで感じたことのないような気持ちに途惑いながら伊吹は代金をカウンターにおいた。オメガの若者は折り畳んだチケットを取り出し、裏返してサインをした。
「……ななほしさん?」
「あ、いや。ななせって読むんですけど、苗字じゃなくて名前です。僕、ここではみんなにそう呼ばれていて、それで」
「七星」
伊吹は小声でつぶやき、くりかえした。
「七星――きれいな名前ですね」
「そ、そうですか?」
落ちつかない声に、伊吹は七星の顔を――黒い眸や鼻筋や、そのしたの唇を――みつめすぎていたのに気づいた。あわててカウンターのチケットをかっさらい、スーツの内ポケットに入れる。
「また来ます」
出口ちかくでまた加賀美とすれちがった。ショートヘアの女性が横にいる。伊吹はかるく会釈しただけで、急ぎ足で階段を降りた。
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