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第2章 獣交む 4.香りの矢
七星はユーヤでみかけるときと同じカジュアルな服装でテラスに立っていた。グリーン系のパーカーを着て、斜めにかけたバッグの色は鮮やかなブルーと黄色のコンビだ。
ここで会えると思っていなかったのもあって、伊吹はまじまじとみつめてしまった。
「伊吹さんも来ていたんですか」
にこっと笑った七星に気を悪くした様子はない。小さなえくぼに伊吹の目はまた惹きつけられた。用心深く視線をずらしながら、とっさに「会社に招待状が来ていたんだ」と答える。嘘ではないし、妻が運営団体の役員だと話す必要はない――意識の表層ではそう思ったのだ。その奥底にはちがう理由があったとしても。
「すごく盛大なパーティですよね」
七星は明るい声でいった。黄色みがかった照明を浴びて前髪が金色に光っている。
「でもやっと二人目です」
「何が?」伊吹は聞き返した。
「知りあいですよ。あ、僕は代表に用事ができて代打で来たんですけど、知ってる人誰もいないしどうしようって思ってたらやっと加賀美さんに会えて」
七星はテラスの隅の方をちらっとみたが、すぐ伊吹に視線をもどした。
「伊吹さんにも会えたからよかったです。僕、場違いですよね。わかってたらもっとちがう服にしたんですけど」
伊吹は微笑んだ。
「大丈夫さ。だいたい、劇場に関してはここにいるたいがいの人より七星君の方が専門家だろ?」
「専門って」七星は吹き出した。
「僕は下っ端ですもん。知ってるくせに」
「でもアーティストや演出家を直接知っているじゃないか。あそこにいる連中のほとんどは取引先の関係で招待状をもらって来ているだけだ。私もそうだし」
「伊吹さんはユーヤのメンバーズじゃないですか」
七星はひじをあげてテラスの奥へ向けた。その先は段になり、純白のオブジェが点々とならぶ中庭に通じている。
「あっちの方見たいんです。つきあってもらえますか。僕ひとりだと不審者みたいだから」
「どこが不審者なんだ?」
伊吹は笑ったが、足はもう七星がさした方に向いていた。七星は同じ方向に歩きながらパーカーのフードをさっとかぶった。
「ほら、怪しい人でしょ?」
フードに囲まれた七星の顔は影のせいでいつもよりさらに小さくみえ、ふわふわした前髪の下で黒い眸が照明を受けて光った。
「……怪しいというか、高校生くらいにみえる」
七星は頬をふくらませた。
「伊吹さんも。勘弁してくださいよ。気にしてるんですから」
「気にしてる? 何を?」
「子供みたいな顔してるつもりはないんですけど、ユーヤでも下にみられがちなんです」
「いいじゃないか。私は七星の顔が好きだ」
心の中で呼んでいる名前をそのまま口に出してしまったことに気づき、伊吹はあわてていいなおした。
「ごめん、七星君の」
七星の眸が大きくみひらく。ふいに伊吹は七星の匂いを意識した。甘く濃い蜜の香りに体の中心がぞくりと波立つ。蓮にも感じたことのない官能の気配に伊吹は焦り、ぎこちなく体の向きを変えて中庭をみおろしたが、二歩離れたところで七星の上体がふわっと傾いだので、さらに焦った。反射的に前に出て七星の腕をつかむ。
「あっ!」
パーカーの下の温もりを感じたとき、濃い蜜の香りが一直線に鼻腔を刺した。まるで伊吹の血をかきたてるように。伊吹はさっと手を離したが、七星は飛び上がるように姿勢をただし、半歩下がった。
「僕すこし酔ってるみたいです。さっき間違ってお酒飲んじゃって」
「弱いの?」
「うん、ええ、そうなんです。だから……」
いわれてみると顔が赤いような気がする。眸がうるんでいるのもアルコールのせいか。
伊吹は手をのばしかけ、すんでのところで止めた。いま、俺は何をしようとした?
「大丈夫?」
「はい。ごめんなさい、僕ちょっと――」
七星の目尻が困惑したように下がり、両足がまた震えたようにみえた。
「どこかに座った方が」
「いえ! ぼ、僕――行かないと!」
小さいが叫ぶような声とともに七星はきびすを返し、走り出した。室内に通じるガラス扉へたどりつくと、ちょうどそこから出てきた数人を押しのけるようにして中に入ってしまう。
糸を引くような香りにひきずられるように、一瞬遅れて伊吹もそのあとを追った。パーティの人波をかきわけるように七星はレストランの出口へ進もうとしている。伊吹も顔だけは知っている名族のアルファが怪訝な目つきで七星の背中を追っていた。それをみたとき、伊吹は唐突に七星がここを離れた原因に思い至った。
俺は馬鹿だ。どうして気づかなかった? 香りがいつもより強かったのは――
ショルダーバックの鮮やかな青がちらりとみえた。このまま行かせて大丈夫だろうか。伊吹が迷っていたのはせいぜい一分かそこらだった。パーティのざわめきをあとにモノトーンの通路を急ぎ足でたどり、七星を追ってレストランの外へ向かった。
どうしてヒートの前兆に気づかなかったのか。
火のつくような焦りに駆り立てられて、七星はエントランスホールを早足で、いや小走りですりぬけようとしていた。二十歳をすぎて何年も経つのに、まるで高校生みたいに――はじめてヒートが来た時のように焦っているなんて。
だいたい、どうしてこんなことになってる? ヒートはかなり先のはずだった。多少早く来るとしても、十日以上は余裕があったはず。
伊吹が腕に触れたとたんおかしくなったのだ。いや、伊吹に会った瞬間から変だったのかもしれない。これまで以上に彼のあの……いつもの香りが鼻について、まるで頭の芯を突き刺されたみたいになっていた。でも、最初はアルコールのせいで感覚が過敏になっているのだと思ったのだ。
そうやって自分に言い訳しているあいだも背筋をぞくぞくと悪寒のようなものがのぼってくる。下腹部は熱く甘い疼きをはらみ、どくんと液体があふれだす感触があった。七星はあわてて歩調をゆるめた。
うつむきながらこころもち内股で歩くが、腰の奥からあふれだし皮膚の下にこもった熱はもう全身に回っている。いつもならもっとわかりやすい前兆があるのに、こんなに人が多いところでいきなりヒートになるなんて、いったいどういうわけだろう?
七星はそっとあたりをみまわした。きっと今の自分はヒートの匂いをまき散らしているにちがいない。伊吹をびっくりさせたにちがいないが、急いで出てこなかったらどうなっていたか。パーティ会場には何人もアルファがいた。でもこのまま電車に乗って家に帰れるとも思えない。タクシー。それしかない。
やっとプラウの外に出て、タクシー乗り場を探した。幸いすぐにみつかったが、それほど長くないとはいえ待つ人の列ができていて、しかも滑りこんでくる車はどれもオメガ専用マークをつけていない。普通のタクシーはヒートのオメガを乗せるのを嫌がるともっぱらの噂だった。彰がいたときはこんなこと、気にせずにすんでいたのに。
七星はショルダーバックからスマホをひっぱりだし、タクシーアプリをひらこうとした。下半身の疼きはひどくなる一方だし、顔も息も熱くてスマホを叩く指が震える。うなじがちりちりするのを感じ、顔をあげると知らないアルファと目があった。七星のすぐ前にはベータの二人連れがいるというのに、突き刺すような目つきで七星をみている。ヒートの匂いが届いているのだ。まずい。
七星はあとずさったが、今度はすぐうしろにいたベータの女性にぶつかりかけて、小声で謝りながら列を離れた。スマホが手からすべりおちて歩道のタイルに跳ね返る。腰の奥がまたどくんと大きく脈打ち、股のあいだを液体がつたっていく。
ああ、もう。七星はしゃがみこんだ。スマホのガラスに斜めのヒビが入っている。また伊吹の匂いがするのは錯覚だろうか。さっきはここで会えたのが嬉しすぎておかしなことを口走ったかもしれない。そうだとしてもたぶんアルコールのせいだ。それに彼のつけている香りのせい。あれが自分をおかしくするのだ。
頭の中をぐるぐる回るそんな思いを追っているあいだも伊吹の匂いがもっと強くなった。指輪をはめた手がスマホを拾い、七星の手に握らせようとしている。声が聞こえる。
「七星。落ちついて」
「伊吹さん」
僕を追いかけてきたんですかといいたかったが、声が出なかった。伊吹が耳元でささやく。
「駐車場に行こう。車がある。私が送る」
だめです。そういって断るべきだったし、七星は伊吹の手を握るべきではなかった。でも遅かった。ふらつきながら七星が立ち上がると伊吹は七星のスマホを拾い、ショルダーバックを腕にひっかけて、七星の腕をひっぱるようにして歩きだした。伊吹の手は暖かくて、七星の体はまるで磁石になったみたいに、伊吹の手から離れようとしなかった。
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