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第2章 獣交む 5.的の範囲

 伊吹は七星の手を引き、急ぎ足で駐車場を横切った。  エントランスの自動ドアをくぐり、外へ出た時はこんなつもりではなかった。ただ七星の様子を確認したかった。ところが彼の背中ををじろじろみているアルファが視界にはいったとたん、伊吹のこめかみの奥でプツリと何かが弾けた。これまで誰にも感じたことのない、独占欲のようなものが一気に心を占め、こんなところに彼を置いていけない、という思いで頭がいっぱいになった。  そのとき七星が歩道にしゃがみこんだので、伊吹はあわてて走り寄った。  私が送る、そういった伊吹を七星は拒絶しなかった。今も伊吹の手をぎゅっと握ってついてくる。駐車場にはひとけがなく、伊吹はほっとした。車にたどりつき、後部座席のドアをあけるときになって、やっと七星の手を離した。  かすかに汗ばんだ手のひらを意識したとたん、強烈な香りが鼻の奥を突き刺した。七星に会うたび伊吹が感じている濃厚な蜜の香りと、ヒート特有の匂いがまざりあった甘い香りだ。もし妻がいなかったら、つがいのいないアルファだったら、抑制剤を飲んでいても手を握っただけで発情(ラット)したかもしれない。  もし蓮とつがいでなかったら――伊吹は頭によぎりかけた想像をふりきるように七星をシートに座らせた。 「楽な姿勢で。横になってもいい」 「すみません……大丈夫……です……僕、ご迷惑を……」 「気にしなくていい。どこまで送ればいい?」  七星の声はくぐもったように小さくなり、ほとんど聞き取れない。伊吹がドアの外でかがんで顔を寄せようとすると、七星はびくっとして首をそらし、座席に置いたショルダーバックを引き寄せた。伊吹は七星のスマホをまだ片手に握っていたのに気づき、あわてて彼の膝に戻した。七星はうるんだ眸で伊吹をみつめている。 「ごめん。前に行くから」  伊吹は運転席に乗りこんでシートベルトを締めた。やっと小さな声が聞こえる。 「ほんとうにすみません。家は柊町なので、そのあたりまで」 「番地は? できるだけ外に出ない方がいい」  わずかな間のあとで七星はいった。 「……柊町3の7の……セントレグルスというマンションで……」  起動させたばかりのカーナビが音声を拾ってマップをひらいた。伊吹は車を出し、窓をすこしだけあけた。涼しい風が流れこんでも濃い蜜の香りは背後から伊吹を包みこむ。国道に出ても渋滞はなく、伊吹はカーナビの地図に従って道を急いだ。七星はひとことも口をきかず、バックミラーに映った顔は影に覆われている。 『次の交差点、右折です』  カーナビが無感動な声で告げた。 「もうすぐだ。大丈夫?」 「……はい」  不安をさそう沈黙のあとでかすれた声がきこえた。七星の住まいは戸建て住宅と緑地のあいだに建つ中層マンションだった。横手のやや狭い道から正面の道路へ回ろうとすると、急に七星がいった。 「ここでいいです」 「ここ?」 「そこ……」  一旦停止してふりむくと、七星は植え込みを指でさしている。その横手、空の駐車スペースの奥に門扉がみえた。なるほど、ここから入れるのか。伊吹はうなずいたが、そのときバックミラーに後続車のライトが光った。とっさに駐車スペースに進入する。車が二台続けて走り去った。 「あの、伊吹さ――」 「私のことは気にしなくていい。降りて」  七星が身じろぎするだけで甘い蜜の香りが漂う。急に伊吹の呼吸は苦しくなり、そのせいか命令するような口調になってしまった。七星はドアをあけて車からおりた。道にならぶ街灯のあかりがぼんやりあたりを照らしている。  伊吹はハンドルに両手を置き、ボンネットの先をいく七星のおぼつかない足取りをみつめた。だが車に残る七星の香りが意識をかすめたとたん、不安とも心配とも名残り惜しさともつかない焦りを我慢できなくなった。  伊吹はエンジンを切り、いそいで車を降りた。七星は門扉のまえでもたついている。 「どうした?」  困惑したような眸が伊吹をみあげた。 「大丈夫……鍵がなかなか出てこなくて」  門扉がひらいたとたん、ショルダーバックがどさっと地面に落ちた。伊吹はいそいでバッグを拾うと、七星の背中を押して先に行かせた。直角に折れたポーチの向こうに玄関ドアがあり、103と表示があった。七星は玄関の鍵をあけ、ドアをひき――そのとたん、なぜかその場にうずくまってしまった。 「七星?!」  伊吹は声をあげたが、七星はうずくまったままだ。かがんで顔を近づけると荒い息づかいがきこえる。伊吹はドアをひきあけると、七星を正面から抱きかかえるようにして、どうにか中に入った。 「もうきみの家だ。しっかり……」  励ますつもりでそういったとき、ドアが閉まった。暗い廊下の先にぼんやりと薄明かりがみえたが、家の中にひとけは感じられない。だが蜜の香りは伊吹を上から下まで包んでいる。どこもかしこも七星の匂いがする。  伊吹はわれ知らず腕の中のぬくもりを抱きしめ、そのとたん頭のどこかでまた何かがプツリと弾けた。まるで見えない力が働いて、伊吹の中にあった閾を突き破ったようだった。  それまでほとんど意識していなかった匂い――七星からあふれるヒートの匂いが、伊吹の鼻孔から頭の芯までつらぬくように駆け抜けた。耳の奥で血が鳴った。たちまち下半身に欲求がみなぎってくる。  伊吹の腕の中で七星が体を揺らした。柔らかい髪が伊吹のあごをくすぐる。伊吹の片手はいつのまにか七星の背中をなでおろしていた。パーカーの下の体が柔らかく伊吹におしつけられ、七星の両手が伊吹の背中にからみつく。暗すぎて七星の顔はほとんどみえなかった。それなのに吐息の熱さでたがいの唇の距離はわかり、次の瞬間ゼロになった。

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