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第3章 八十八夜 4.つかのまの少年
「伊吹、三城家に行く前に彼を送ってくれる?」
蓮の声を聞いたとき、伊吹の思考は混乱のあまり一時停止し、足もすくんだように動かなかった。
そこにいるのは七星本人でまちがえようもない。伊吹の脳を呪縛するような香りが、顔と背格好が似ている別人ではないことを証明している。くせのある前髪が今日もひたいのうえではねて、大きな黒い目が伊吹をみた。
ふいに胸の奥にさしこむような痛みが走り、伊吹の思考はフル回転で走り出した。
どうして七星がここにいる?
蓮はいま何といった?
まさか蓮は、七星と自分のあいだに起きたことを知って――
「あ、彼は七星。プラウのパーティで知り合ってね」伊吹の顔をみた蓮が面倒くさそうにつけたした。「藤さんに迎えを頼んでいたのに、どんな風の吹き回し?」
迎えに来たというのに非難するような口ぶりである。だがこれは|い《・》|つ《・》|も《・》|の《・》蓮だった。円満な夫婦だと周囲にアピールしなくてもいい場所で、蓮が伊吹にみせるいつもの顔だ。
つまり、蓮には何も含むところはない――のかもしれない。
伊吹はすこし落ち着きを取り戻した。もっとも狼狽は最初から表情には出ていないはずだ。相手に内心の動揺を気取らせないよう、いつも自分を律する習慣はずっと前からはじまったもので、両親の前でもそうなのだから、蓮に対しても変わることはない。
しかし七星がそこにいるだけで、伊吹の体の芯は熱を持ちはじめる。今日はトレードマークのようにユーヤで着ているパーカーではなく、シャツと薄いジャケットだ。
伊吹は七星に目をやらないよう、無意識にこぶしを握っていた。そうしなければ見慣れた蓮の美貌を素通りして、七星を注視してしまうだろう。
「私も行くわけだから、藤さんをわずらわせるまでもない。一緒に行かないと向こうも変に思うだろう」
伊吹は蓮の視線をとらえ、淡々とこたえた。
「そうだっけ?」蓮は小馬鹿にしたような口調でいった。
「僕の荷物は?」
「トランクだ」
蓮は興味なさそうにうなずいた。たしかに彼にとって三城家の法事はどうでもいいこと、最低限の義務なのだろう。七星がすぐそこにいるにもかかわらず、伊吹に最低限のことしか伝えないのは、七星が伊吹と接点があるとは想像もしておらず、このさき関わらせるつもりもないからだ。
実際、いまの蓮は七星の注意を引きたいばかりで、伊吹のことは毛ほども気にしていないようだった。ほとんど手をとらんばかりのいきおいでハウス・デュマーの駐車場へ七星をいざなう。
「七星、来て。車はあっちだ」
「あ……えっと、でも」
「気にしなくていいから。今日は僕のリクエストでつきあってもらったわけだしね」
「ええ、いえ、あっその、か、会計――」
狼狽でどもった声を聞きながら、伊吹はふたりのオメガの後ろから車へ歩く。身長は蓮の方がすこしだけ高い。七星にとっても不意打ちなのはあきらかだった。それではこれは純粋な偶然ということか。
こんな偶然がありうるのか?
とはいえ伊吹にとって、蓮のいまの態度に不自然なところはまったくなかった。なにしろ蓮は、宮久保家と無関係な友人――少なくとも自分がそう思っている相手――を伊吹にきちんと紹介したり、逆に伊吹を夫としてきちんと紹介したことが一度もない。
これは意図的なものだった。結婚前から蓮が伊吹に示している、必要以上に自分に関わるなというポーズのひとつなのだ。だから時には伊吹を宮久保家の使用人だと勘違いする者もいる。
伊吹は足をはやめてふたりを追い越した。先に後部座席のドアを開け、それから運転席にまわる。ドアを開けなければ蓮はその前で待っていたことだろう。
自分のこんなふるまいを七星がどう思うか、そのときの伊吹に考える余裕はなかった。すこしでも気を緩めたら、自分は蓮が不審に思うようなとんでもないことをしかねない。
それでも七星が車に乗ると濃厚な香りに息を飲みそうになった。サングラスをかけたのはせめてもの防御だ。
「七星の家、どこ?」
「いちばん近い駅で下ろしてもらえれば」
七星が小声でいったが、蓮にはまるで聞く気がない。
「何を遠慮してるの? 家まで送るって。どこ?」
バックミラーに映った七星はみるからに居心地が悪そうだった。黒い眸が伊吹のサングラスにぶつかり、不安そうに揺れる。
それだけで心がかき乱されるというのに、蓮が馴れ馴れしく七星の肘をつつくのをみると、今度は苛立ちがこみあげてきた。なぜ蓮が七星の横に座っているのか――そう思ったとたん、いま自分が感じているものは蓮への嫉妬だと気づいて愕然とした。
「どうしようか」
伊吹は穏やかにたずねようとしたが、声は不必要なほど低くなってしまった。バックミラーの中で七星のまぶたがびくりと震えた。
「じゃあユーヤまで行ってもらえますか」
「え、今から?」
蓮がすかさずたずねる。かまってほしがる子供のような口調だが、彼のこんなアプローチをたいていの人間は無視できない。美貌や生まれ育ちのせいか、あるいは気前のよさがなす技かもしれない。バックミラーの中で七星は困ったように小さく笑った。
「ほんとは午後もシフトだったし、気になるから」
蓮が唸った。
「そっか。伊吹? ユーヤっていうのは――」
そのとたん、蓮をさえぎるように七星が住所をいった。
「わかった。ありがとう」
車が動き出すと蓮は伊吹など存在しないかのように七星に話しかけている。今度はハウス・デュマーへ踊りに行こうと誘っているのだ。唐突に、伊吹の頭にダンスフロアに立つ七星の姿が浮かんだ。いつものパーカーを着て、リズムにあわせて体を揺らすところまでありありと想像してしまう。
「僕はクラブで遊んだりとか、慣れてなくて」
「大丈夫だって、僕と一緒にいればしょうもないアルファは寄ってこない」
バックミラーごしに七星が苦笑いするのがみえた。だが伊吹のサングラスに視線がぶつかったとたん、はっとしたように笑みが消える。疑心暗鬼が見え隠れした。
当然だろう。きっと七星も、自分がいまどんな状況にあるのか不思議に思っているのだ。
伊吹は運転に集中し、後部座席の会話から意識をそらそうとした。半分くらいは成功したように思ったが、やっとユーヤの前に到着したときはひどく疲れていた。
「どうもありがとうございました」
蓮が無邪気な声で「七星、また遊ぼうね」といった。ドアがバタンと閉まった。
その一瞬、伊吹はハンドルを握ったまま茫然自失していた。世界が半分消えてなくなったような喪失感に襲われたのだ。七星の香り――存在が消えたから? 馬鹿な。
「早く出して、伊吹」
蓮がいった。七星に話していた時とはうって変わった冷たい声だ。
伊吹は返事もせずにアクセルを踏みながら「プラウのパーティで知りあったって?」とたずねた。
「七星のこと?」
蓮がそっけなく聞き返して「加賀美氏の紹介だから、誰も文句いわないよ」と続けた。それ以上話すつもりもないらしく、黙ってしまう。
なるほど、それならうなずける。加賀美家当主とは四月に一度ユーヤですれちがった。彼は芸術全般のスポンサーとして有名だから、ユーヤには何らかの後援をしているのだろうし、プラウのパーティで、世代も同じオメガの七星を蓮に紹介するのは十分ありそうなことだ。
つまり伊吹がユーヤをみつけたのはまったくの偶然だが、加賀美を通じて蓮と七星が知りあいになるのは、そこまでまったくの偶然とはいえない。
それに蓮はあきらかに七星を気に入っているのだった。理由はわからないまでも、伊吹と七星が知りあいだと、蓮が考えてもいないのはわかった。七星から漂う強烈な香りにも蓮はまるで気づいていない。他の人々とおなじように。
〈運命のつがい〉という言葉がまた頭に浮かぶ。七星はあれからどうしただろう。考えずにいるつもりなのに、また伊吹は想像してしまう。
――いや、これは想像ではなく妄想だ。さっき蓮が七星を誘っていたときに浮かんだ光景の続き。ダンスフロアで伊吹は七星の前に立っている。むかいあって、彼の細い腰に手をあて、抱きよせて音楽に乗り、七星の耳もとに唇をおしつける……。
信号が変わった。伊吹はまっすぐ前をみたまま妄想を振りはらおうとした。バックミラーをみると、蓮は目を閉じ、眠っているようだった。
伊吹にとっては見慣れた美貌だが、三城家の両親は彼を心待ちにしているだろう。蓮はふたりを破滅から救った宮久保家の大事な姫君で、今も宮久保家の援助で両親の体面は保たれている。
そのせいか三城の実家を訪れたときだけは、蓮は伊吹と「仲睦まじい夫婦」を演じない。そっけなく冷淡にふるまっても伊吹の両親は嫌な顔ひとつしないが、息子の伊吹に向ける顔はちがう――だがこれは、蓮と結婚する前からのことだ。
それでも今日は蓮とひさしぶりに同じ寝室になるだろう。だからといって、何も起きないはずだ。蓮のヒートはまだ先だった。
そして七星は――今日の悲惨な喜劇のような遭遇を彼はどう思っただろう?
想像すると暗澹とした気分になった。それなのについさっきまで、同じ車のなか、手を伸ばせば届くところに七星がいたと思うだけで、伊吹の体の芯にはまた熱がともるのだ。ともすればどうしようもない欲望にかられていた十代のころのように。
伊吹はため息をかみ殺した。
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