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第3章 八十八夜 5.繭の中
七星はユーヤの重い扉に手をかけたまま、車が去っていく音を聞いていた。
伊吹の車だった。あの日、七星のマンションまで送ってもらった車だ。車種やナンバーを覚えていたわけではない。彰とちがってその手のことは苦手なのだ。でも車の中は伊吹のあの香りでいっぱいだった。あの晩七星がヒートでどれだけぼうっとしていたとしても、勘違いしようがない。
伊吹は自分の車で蓮を迎えに来たのだ。これが意味することは?
七星は扉をあけたものの、二階に向かう階段を眺めて躊躇した。今は静かだが、あと一時間もすれば今夜のイベントの客入りがはじまるから、受付の準備をはじめるだろう。魚居や祥子にみつかったら――絶対にみつかるはずだが――あれこれ聞かれるにきまっている。
七星はそっとあとずさり、扉を閉めた。いそいで路地に入って神社の中を通り抜け、商店街に出る。土曜の午後とあって人通りはいつもより多かった。駅近くの飲食店がならぶ通りは早くも人でごった返している。
七星は足をはやめ、ひとごみのあいだをすり抜けて改札をくぐった。すこし待つだけで電車はやってきた。座席は空いていたが、七星はドアのすぐ横に立って通りすぎる景色をみつめていた。びっしりと立ち並んだビルやマンション、灰色の道路に白い白線、色鮮やかな広告看板が薄汚れた窓の向こうを流れていく。しかし七星の頭の中は伊吹のことでいっぱいだった。
まるで動画を早送りするように、伊吹の姿が何度も何度も再生されるのだ。運転席からあらわれた伊吹。七星と目があったか、あわなかったのかもわからなかった。蓮のためにドアをあけてやり、運転席でシートベルトを締める。サングラスをかけた顔がバックミラーに映る。
(一緒に行かないと向こうも変に思うだろう)
(そうだっけ? 僕の荷物は?)
(トランクだ)
蓮は伊吹が来たことが意外だったようだ。あの会話はただの運転手とするものではなかった。車に乗っているあいだ伊吹はほとんど口を聞かなかったし、七星と目も合わせなかった。なぜなら……。
そういえば蓮は指輪をはめていた。
ぼうっとしていたので電車を降りそこねるところだった。七星の足は玄関まで機械のように動いた。蓮と伊吹のやりとりも何度も頭の中で繰り返されたが、自分が感じていることがよくわからなかった。ところが鍵をあけて靴を脱ぎ、クロゼットのドアを押したとたん、膝ががくがくと震えはじめた。
伊吹の香りがする。
クロゼットに伊吹のスーツが下がっているからだ。スーツ以外のものも引き出しにしまってある。七星は震えがおさまるまで戸口に立っていた。ジャケットをハンガーにかけるときも、伊吹のスーツに目がいってしまう。無意識に引き出しをあけそうになった。捨てられなかった伊吹の下着が入っている引き出しだ。
だめだ。こんなことを習慣にしてはいけない。
七星は飛びのくように廊下へ出て、クロゼットのドアを閉めた。リビングの窓をあけ、意味もなく部屋の中をぐるぐる歩きまわり、しまいにキッチンへ入り、冷蔵庫をあけてしめる。何かしなければ、そう思ったとたん空腹なのに気づいた。七星はたまねぎを刻みはじめた。
彰が生きていたときは毎日料理を作っていた。料理が得意だとか、好きだから、というわけではない。結婚したとき彰はもう就職していたから、自然とそんな分担になったのだ。彰は七星が家事のほとんどを引き受けるのが当たり前のようにふるまったし、義理の両親も同様だった。
何を作ればいいのかわからない時はとりあえずたまねぎを刻んでおけ、というのを誰に聞いたのか思い出せない。透きとおるほど薄くスライスし、水にさらしてサラダやマリネにする。みじん切りにして餃子やハンバーグ、飴色になるまで炒め、カレーや料理の隠し味に使う……そんなことを何度もくりかえして、七星はたまねぎを刻むのが得意になった。
彰とぎこちなくなったときは黙ってひとりでキッチンに立ち、たまねぎを刻んだものだった。包丁を入れるたびに目や鼻を刺激されると、他のことを考えずにすむ。そうしているうちに彰がキッチンにやってくる。
七星がスープを煮たり、餃子の具を混ぜていると、すぐ横に立って「手伝おうか?」とたずねる。七星は「大丈夫」とこたえる。そのころには涙もひっこんでいるし、ふたりともなぜこんな雰囲気になってしまったのか、忘れたふりをすることができる。
彰と七星はつがいだから――つがいだったから、それでもよかったのだ。完璧な関係なんてありえない。七星の両親だってそうだ。考えがあわなかったり、相手の期待にこたえられなかったり、おたがいにイライラすることもある――いや、あった。
黙々と手を動かすうち、たまねぎは我流のキーマカレーに姿を変えた。これなら余分に作っても冷凍すればしばらくはもつし、アレンジもきく。炊飯器から蒸気があがり、米が炊き上がる匂いにカレーの香りが混ざりあった。
美味しそうな匂いが漂い、満足していいはずなのに七星の気分はすこしも晴れなかった。おかげで食器棚からカレー皿を取るのに失敗した。上に重なっていた器を床にばらまいてしまったのだ。
「あっ」
七星は思わず叫んだが、もちろん誰も聞いていない。幸い落とした器はみな無事だった。それなのに床にしゃがんだとたん、なぜか伊吹の顔が頭の中にちらつきはじめた。すると今度は怒りに似た苛立ちが湧き上がってきた。
今日、伊吹は七星を知らないふりをした。七星がどこに住んでいるのかも知らないふりをした。
七星も同じだ。蓮に、七星と伊吹のあいだに起きたことを悟られたくなかったから。伊吹と蓮がどんな関係にせよ――
七星は食器をそのままに立ち上がり、リビングにスマホを探しに行った。
「こんなところまで来ていただいて、本当にありがとうございます」
「蓮さん、とてもお忙しいんでしょう? 本当にむさくるしくて申し訳ないですが、一晩我慢なさってくださいね」
伊吹の実家、三城家は閑静な住宅街の中にある。このあたりの地価を考えれば平均より広いが、宮久保の邸宅とはもちろん比べようもない、ごく普通の家だ。へりくだりながら挨拶した伊吹の両親に対する蓮の反応は鷹揚なものだった。
「いいえ。お二人ともお元気そうで何よりです」
「|嘉織《かおる》と婚約者も挨拶に来ていますのよ」
伊吹の母親、瑠璃がそういったとたん、弟の嘉織と、先月婚約したばかりの那美が応接間に姿をあらわした。ふたりともベータだ。嘉織は伊吹より二歳年下で、顎や鼻筋は父の伊織に、目元とがっしりした体型は母の瑠璃に似ている。伊吹がどちらにもまったく似ていないのと対照的だった。
「蓮さん。お久しぶりです。兄貴も元気そうだな」
弟は伊吹に気のない視線を向け、伊吹は軽くうなずいた。
「泊まっていくのか?」
「いや、今日は挨拶だけで帰る。那美がぜひ蓮さんにお会いしたいって」
弟の声に応えるように、横にいた那美が蓮に向かって満面の笑顔を向ける。蓮は彼らにも鷹揚な微笑みでこたえた。彼にとってはどこへ行ってもこんな風に歓迎されるのは当たり前のことだから、たいていの日本人のように謙遜することもない。
「蓮さん、実は明日、会食のあとで蓮さんに会わせたい方がいるんですよ。文化政策担当の県議会議員なんですがね。ネットで見たんですが、大きな劇場の理事長になられたんでしょう?」
夕食前の軽い乾杯をしたあとで、父親がおずおずとそんな話を持ち出した。伊吹は黙って聞いているのが常だったが、この時は口をはさんだ。
「明日は会食が終わったら湯浅さんを訪ねるつもりです」
「なぜ?」
すかさず問いかけたのは母親の瑠璃だった。あからさまな非難の目つきを伊吹は受け流した。
「七回忌ですよ。家族も同然だったんだし、湯浅さんには法事に来てもらってもいいくらいだ。今は家の管理もしてもらってるし」
湯浅儀一は亡くなった祖父母の親しい友人である。長らく祖父の秘書をつとめたあと、今は晴耕雨読の生活を送っている。彼には伊吹の名義になっている祖父母の家を時々見回ってもらっていた。
「湯浅さんは親戚でもなんでもない人よ。法事に呼ぶわけがないでしょう。管理については電話ですませられるでしょうし」
「その通りだ。蓮さんを関わらせる必要はないだろう」
両親の目は自然と蓮の方をむいた。伊吹の妻は美しい所作でグラスを置く。
「その県議会の方、会ってみたいです。理事長なんて立派な肩書もらったはいいですけど、勉強をたくさんしなくちゃいけなくて、今がんばってるところですから。参考になる話が聞けそうだ」
「オメガの蓮さんに大役がまかされるのは期待されている証拠ですよ。伊吹、どうなの?」
今度は両親の目は伊吹に向いたが、蓮が口をひらくとまた元に戻った。
「県議の先生に会うなんて、僕ひとりでっていうのも怖いしね。伊吹、その湯浅さんはまたの機会にしてくれない?」
怖い、か。ものはいいようだが、伊吹はまさにこういう場面で蓮に同伴するために婿入りしたようなものだ。伊吹はうなずいた。
「わかった」
もし武流がここにいたら、例によって「その押しの弱さはアルファらしくないぞ」と茶化すことだろう。もちろん彼は伊吹や三城家の事情など知らない。弟の嘉織が大学時代、同級生のアルファにそそのかされて多額の負債を作ったことや、祖父の金融資産はすべてその返済に充てられたことも。
両親がアルファの伊吹に冷淡なのは、ベータの弟がろくでなしのアルファとつるんでトラブルをこうむったから、というのもあるだろうし、伊吹が祖父母の家と土地を手放すことを頑として拒否したせいもある。
とはいえ嘉織はその後も別の金銭問題を起こし、その結果かなりの負債を作っていた。伊吹が宮久保家に婿入りしたあと嘉織の負債は事実上帳消しになったが、来年あげる彼の結婚式の費用は両親が負担するようだ。
腑に落ちないことも多いが、人の心は1+1=2のように計算できない。伊吹はずっと前からそう思うようになっていた。だいたい、実家にいるというのに伊吹がまったくくつろげないことだって、他人には腑に落ちないにちがいない。
酒がすこし入ると蓮はもっと愛想がよくなり、より魅力的にもなる。伊吹は途中で席を立って、自分たちのために用意された部屋へ行った。二間つづきの畳の部屋で、もう布団が敷いてあった。白い枕をみたとたん、なぜか七星の顔が頭に浮かんだ。
ふいにポケットの中でスマホが震え出した。伊吹はいそいでひっぱり出したが、指は液晶の上で硬直したように止まった。
――七星。
逡巡していたのは何コールほどだろう。それでも伊吹の指は緑のボタンに触れていた。
「三城です」
『……照井です。今日……僕ら、会いましたよね』
「七星君」
伊吹は息を飲んだ。耳に押し当てたスマホから響く声が泣いているように聞こえたからだ。
『すみません突然。僕どうしても……たしかめたくなってしまって。僕が乗ったのは三城さんの車ですよね?』
それは質問ではなく単なる確認だった。でもすぐに切羽詰まった問いが続いた。
『あれは偶然なんですか? 三城さんって何者ですか。宮久保さんは……?』
伊吹はほんの一瞬だけ、答えをためらった。
「蓮は私の妻だ。三城は結婚前の姓で、通称で使っている。きみに話す必要はないと……」
そこまで口にしたとき、なぜか喉がぐっと締めつけられたようになって、伊吹の声は途切れた。
「すまない。話す意味のないことだと思った」
『僕もそう思います。でも……』
それきり通話はぷつりと切れた。伊吹はスマホを持った手をだらりとさげて、その場に立ち尽くしていた。
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