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第3章 八十八夜 6.雲雀の血

 テーブルに放りだしたスマホがピロン、と鳴った。七星はびくっとして通知をみた。メール。魚居だ。伊吹ではない。  内心ほっとしながら、僕はどうかしていた、と思った。なぜ電話なんかした? ついさっきの切迫した衝動はすっかり消えて、今は胸のなかにぽっかり穴が空いたような気がする。  伊吹の妻は蓮なのだ。  思わず苦笑いが漏れた。ほんとうに僕は馬鹿だ。きっとあの人は心の底から僕を迷惑だと思っている。名族で、あんなに美人のつがいがいるのに、僕みたいなのが〈運命のつがい〉です?  運命なんていっても、しょせん匂い――ホルモンとか生理反応とか、そういうのがたまたま一致しただけなのに。  いまさらながら、電話する必要はなかった。伊吹の口からたしかめる必要なんてなかったのだ。うすうすわかっていたくせに。もしかしたら「ちがう」といわれるんじゃないかと、ほんのかけらほどの期待を抱いていたのか。  いいや、それも変だ。既婚者だってことは最初からわかっていた。あの人は好きになっても意味のない人なのだ。だから、せめて友だちみたいに……なれればいいと思っていたのに、突然はじまったヒートのせいであんなことにならなければ――  七星は首をふった。進歩がない。同じことを前も考えた。伊吹のつがいが誰だろうと何も変わらないのだ。ただ蓮が七星を誘ってきたから、これからどうなるか不安なだけだ。  キッチンからキーマカレーの匂いが漂ってくる。七星は機械的にスマホをタップし、メールをひらいた。月曜夕方のスタッフミーティングについて、重要な話をするからみんな来てほしい、という内容だった。もしかしたらついにユーヤの今後を決めたのかもしれない。移転先がみつかったのだろうか。  伊吹のことは頭からしめだすと決めて、七星はさっき落としてしまった食器を片づけ、カレーを皿によそった。作っているあいだは食欲があるのかもよくわからなかったが、食べはじめるとお腹が空いていたのがわかった。半分以上一気に食べて、残り何口かになったあたりで、またスマホが気になった。七星はスプーンを置いた。  検索窓に「宮久保」と入れると、たちまちフリー百科事典の項目やニュースサイトのリンクが出た。サムネイルに蓮の美貌がみえてどきりとする。〈プラウ〉のオープンを知らせるPR記事らしい。その下のリンクは不動産のウェブサイトで、サムネイルには着物姿の上品な女性が映っていた。当主の宮久保瀧、女の人だ。女性のアルファが当主というのは意外だった。  スクロールしても伊吹の顔が出てこないのに七星は内心ほっとした。関連検索には他の名族の苗字があがっている。みな三文字姓だ。七星が直接知っているのはユーヤに来る加賀美だけだが、鷲尾崎や藤野谷といった名前なら聞いたことがある。名族のアルファにはかならずオメガのつがいがいて、セレブのニュースに時々登場するのだ。  スマホをいじっているうちにカレーは冷めてしまっていた。数口分を飲みこんで、七星はふと思い出し、彰が好きだったバンドの名前を入力した。動画サイトのプレイボタンに触ると、今は懐かしく感じる音楽が流れはじめる。  子供の頃からのつきあいでも、結婚して一緒に暮らしはじめるまでわからなかったことはけっこうあった。よく聞いている音楽や、食べ物や、好きなセックスのやりかたとか。  彰が近くにいるのが当たり前だったせいか、七星はマンガやアニメに描かれているような「アルファとオメガの恋愛」にまったく実感がわかなかった。でもヒートがはじまったころ、彰に「おまえだけだよ」といわれるとすごく嬉しかったものだ。  あのころは、彰は七星に早く出会いすぎたせいで、自分自身をわかっていなかったなんて、まったく思わなかった。  疑惑というほど大げさなものではない。ただ、よくわかっているはずの人間の、思わぬ内心を知った最初のきっかけは、結婚して一年ほど経ったあと、ふたりでバンドのライブに行ったときだ。  結婚を決めたとき、彰も七星も当然のように早く子供を持つつもりだった。オメガは若いうちに子供を産んだほうが国の援助を長く手厚く受けられるし、子育て後のキャリアも充実する。照井の義両親もサポートするつもりではりきっていた。  ところがヒートは定期的に来たのに、七星は一年たっても妊娠しなかった。  平均して、男性オメガは女性オメガよりヒートの期間は若干長いが、年間の回数は少ない。つまり妊娠するチャンスは男性オメガの方が少ないといえる。そのことが念頭にあったせいか、照明がピカピカ点滅するライブハウスのホールで、彰の視線がオメガの女性に流れても、七星は見なかったふりをした。  でも、きっとどこかに違和感があったのだろう。今でも覚えているくらいだから。新築マンションの壁紙がわずかに歪んでいるのをみつけたときのような――こういう瑕疵をみつけるのはいつも彰だったけれど――思っていたのとちがうという、かすかな違和感。  その違和感はすこしずつ大きくなっていった。妊娠しないままさらに一年すぎ、七星は彰の期待に応えられない自分を情けなく思う一方で、彰のセックスの好みについては以前とはちがう考えを持つようになっていた。  たとえばこういうことだ。彰はほんとうは――おなじオメガでも、女の子の方が好きなのかもしれない、とか。  それでも子供ができればよかった。いや、彰が死ななければよかった。  つがいって必要なものだから――蓮もそういった。彰が生きていたら何もかもが薔薇色だったというわけじゃない。でも、少なくともこの前のヒートのようなことは起きなかったはずだ。彰は七星が知らせればすぐ駆けつけてくれただろう。七星は彰の唯一のつがいだったのだから。彰は七星を守ってくれただろう。いまどきのオメガはこんな風にアルファに頼るものじゃないといわれているけれど、でも――つがいって、そういうもののはずだ。 (ずっとひとりでやっていけるとは限らないでしょう。七星君はオメガだし)  こんな風に考えてしまうから、彰の叔母にあんなこと、いわれてしまうのかも。  四月の法事で美桜が無遠慮に放った言葉を思い出して、うんざりした気分になった。結局このもやもやはどこから来ているんだろう。七星がオメガで、ヒートがあること? それなのに子供ができなかったこと? つがいが死んでしまったこと? それに――伊吹に会ったこと? 〈運命のつがい〉なんて、何かの間違いじゃないか。間違いだったら……。  七星はふらふらと立ち上がり、リビングを出てクロゼットをあけた。今回は帰った直後のように震えたりはしなかった。死んだ夫のスーツが抜け殻のようにぶら下がるあいだに、伊吹の香りがするジャケットとスラックスが揺れている。   頭の隅に、懲りもせずにとか、こんなことではいけないとか、小言のような言葉が浮かんだ。その一方で、こんなことになった以上伊吹にはほんとうに、もう二度と会わないだろうからかまわない、という、ずるいようなうしろめたいような考えも通りすぎて行く。  七星はハンガーにかけたままのジャケットの前をひらいて顔をそっとおしあてた。だらりと垂れた袖を首に巻きつけると、鼻の奥に入りこんだ伊吹の香りに抱かれているような気がする。空っぽな心と体が満たされて、彰の思い出もどうでもよくなる。 「……変なの。麻薬ってこんな感じ?」  自嘲するようにつぶやいてみるものの、体の奥はもう甘く疼いて、喉の奥から変な声が漏れた。こんな変態みたいなことをしている自分が滑稽で、悲しくて、それなのに伊吹の香りは七星をけっして離そうとしない。 「はい、七夕企画の進行については以上ね。それで今日みんなに集まってもらった理由だけど――」  魚居がホワイトボードの前でみんなをみまわしながらいった。  五月二十二日、月曜日の午後五時。ユーヤの事務所には運営メンバー全員が顔をそろえていた。他の団体運営とかけもちしているスタッフもいるから、こうして事務所に全員集まるのはあまりないことだ。 「察している人もいるかもしれないけれど、七月と八月の七夕企画を最後に、九月いっぱいで〈ユーヤ〉を終了します」  魚居がそういったとたん、スタッフの反応はふたつに分かれた。やっぱりね、といった顔をする者と、ほんとうに? という顔をする者。でも後者は少なかったし、七星が感じたのは「がっかり」と「やっぱり」が半々くらいだった。 「カフェの営業は九月まで。移転はしません。九月を待たずにやめる場合は一カ月前までに知らせてください。七月七日から旧暦七夕にかけての夏の企画は、今みんなに報告してもらった通り準備中で、ここまでしっかりやるつもりでいます。少なくとも八月まではみんなにいてもらえると嬉しいけど、就職活動でシフトを変わるとか休むのは問題ありません。ただし人員は確保しないといけないので、予定ができたら早めに知らせて。質問はある?」  すこしのあいだ沈黙がおち、それから七星の向かいに座っていたマツが手を挙げた。 「十月からは何をするんだ?」  魚居は首をすくめるような動作をした。 「まだ本決まりじゃないけど、プライベートで挑戦したいことがあるから。今回のようなことがなければあきらめていたかもしれないこと」  祥子がちらっと視線を投げた。どことなく心配そうな目つきだった。プライベートというからにはパートナーの彼女も関係するのだろうか。 「そうか。残り四カ月とすこし――まあ、がんばろうや」  マツが腕を組んでいった。彼はきっと察していた口だろう。 「今後も同じ業界でやっていくなら、私もできるだけのことはするし、加賀美さんも力になってくれるといってる。メンバーズも含めて、公式の告知は七月以降にするから、それまでは外部には漏らさないで。いいかな?」  魚居はまた全員をみまわした。七星も、他のみんなも小さくうなずく。 「どうもありがとう。そろそろ梅雨だけど、そのあとの夏をみんなでいい感じに過ごせると嬉しいです。じゃ、これで話は終わりだけど、夏の企画について今の時点で詰めたいことある人はついでに話していって」  がたがたと椅子を鳴らす音がしてドアが開き、七星も立ち上がった。こういうこともあるかと想像はしていたものの、秋までに就職活動をしなくてはならないと思うと少し憂鬱になる。学生のころ、ちっともうまくいかなかったことを思い出してしまうからだ。 「七星くん、大丈夫かな?」  ドアの方にいきかけて、祥子の声にふりかえる。年上のオメガ女性は七星の気持ちをほぐそうとでもいうように、すこしおどけたような目つきをしていた。 「大丈夫ですよ? あ、祥子さんが前に魚居さんと喧嘩してたの、この話ですか?」  祥子はわざとらしく目をみひらく。 「うん、まあそうね。半分くらいは。ところで土曜日はどうだった? ハウス・デュマーのアフタヌーンティー」  やっぱりこう来たか。昨日会わなかったから、聞かれると思っていたのだ。 「うん、なんか、ちゃんとしたところでした。ケーキとかスコーンとか美味しかったし」  七星は祥子と並んで事務所を出た。カフェはいつも通り、一人客が二組。月曜の夕方はこんなものだ。 「七星くんの他には誰か来たの?」 「ふたりだけです」 「王子様とサシね」 「アフタヌーンティーでサシって」  七星が笑うと、祥子もふふっと笑った。 「王子様とつながってると何かいいことあるかもしれないわ。向こうがその気なら仲良くしていたらいいんじゃない」 「いや、でも……」  ユーヤは終わるっていったばかりなのに。そういいかけて七星は顔をあげた。  まさか。信じられない。 「あら」  祥子が明るい声をあげて階段の方へみた。七星はそっちをみなかった。くるっときびすをかえして、祥子にかまわずカフェカウンターの方へ行こうとした。  そうじゃない、事務所にまた入ればいい、そう気づいたときはもう遅く、急にドアが開いて魚居がマツと連れ立って出てきた。こっちをちらっとみる。おかげで戻りそこねてしまう。  七星はぎこちなく体を動かし、魚居の怪訝な視線を避けようとして、結局階段の方をふりむいてしまった。磁石みたいに七星を呼ぶ香りのもとがすぐそこにある。みなくても誰なのかわかっていた。犬じゃあるまいし、忌々しい。それなのにやっぱり胸の中には嬉しい気持ちがふくらんで、思わず唇が歪む。  好きという気持ちのせいでこんな風になるのなら、知らない方がよかった。ふとそんなことを思った。

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