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第3章 八十八夜 7.走り梅雨

 伊吹の視線の先で七星がふりかえった。その瞬間伊吹の心を満たしたのは純粋な喜びだった。そこに七星がいる、それだけで与えられる喜び。それともこれは心ではなく体の反応だったのか。  七星からまっすぐ、矢のように伊吹に刺さってくる甘い香りや、目に映る姿――猫背ぎみの肩からのびた首、ぴょんと跳ねたくせっ毛、細いあごに、はっとみひらいた黒目がちの大きな目、それらが全部いっしょくたになって伊吹の心臓をわしづかみにし、どきどきと脈打たせる。しかし同時に頭の片隅を横切ったのは、自分の軽率さに対する後悔だった。  実は土曜の夜からよく眠れていなかった。日曜の法事のあとも気もそぞろだったが、両親や蓮は気づかなかったはずだ。ポーカーフェイスには自信があった。  アルファはベータとオメガの先頭に立ち、集団を引っ張っていく、そんな存在だと思われている。だが伊吹はちがう。先頭に立つことはめったになく、意識して集団に溶けこむようにしている。だが伊吹が戦略的にそうふるまっているとは、周囲は気づかない。  アルファだからこそ目立ってはならないと思うようになったのは、良くも悪くもベータの両親のせいにちがいない。大学のころは陰険なアルファだと陰口を叩かれていたことも知っているが、伊吹は何とも思わなかった。他人の無責任な言葉に左右されず、自分の思う通りに物事を運ぶ。それこそがアルファの特徴であって、世間のよくあるアルファのイメージ、派手なリーダーシップはその一部にすぎない。  戦略に沿って、その場に応じた最適解を選べ。そのために常に冷静であれ。これが伊吹の金科玉条である。  ところが土曜以来、伊吹の心は冷静からは程遠かった。だからこそユーヤに来てしまったのだ。社にはまだ片づけなければならない書類が残っているというのに、七星を、その存在を、自分自身の目でたしかめることこそがのだという、不条理な衝動をふりはらうことができなかった。 「こんばんは」  年上のオメガ女性に挨拶され、伊吹は「どうも、こんばんは」と応じた。魚居祥子。四月にユーヤのメンバーズになったとき、伊吹は代表の魚居らんとともに名刺をもらっていた。いかにもオメガらしい柔らかな雰囲気をまとった女性だ。  ちょうど事務所から魚居らんとベータの男があらわれて、階段の前の通路は混雑した。奇妙にぎこちない譲り合いがおきて、伊吹はカフェの方へ、七星の隣へ押し出される。 「ど、どうも」  七星がどもりながら小さく会釈して、飛び出すように大股に前に出た。距離をとろうとしているのだと感じて、伊吹の胸はちくりと痛んだ。きっと軽率だと思われている。こんなふうに鉢合わせしなければ、ちょうど二週間前の月曜のように、遠目に確認するだけですんだかもしれない。  しかし七星はそのまま伊吹を置いていったわけではなかった。ためらいがちにふりむいて、目をあわせたからだ。 「カフェ……ですよね」 「あ、ああ」 「すみません、スタッフで混雑してて。打ち合わせがおわったばかりなんです」  月曜の夕方、カフェにも仕事帰りに立ち寄る客が増える時間だった。伊吹のあとも客がつづいて、レジには三人並んでいる。  伊吹はあたりをみまわし、窓のそばまで歩いた。七星が1メートルほど離れて立った。電車が鉄橋を走り抜け、窓ガラスが揺れた。 「息抜きしようと……社を出てきたんだ」  口にした言葉はあまりにもいいわけがましく響き、伊吹は自分自身をあざ笑いたくなった。七星がすばやくいった。 「三城さん、土曜のこと、気にしないでください。僕、誰にも話したりしないし」  ハッとして伊吹は七星の顔をみたが、いそいで視線をはずして、またも自分の軽率さに呆れた。七星は自分が口止めに来たと思ったのか。 「ちがうんだ。そうじゃない。どうしても……きみの顔をみたくなって」  ふたたび後悔した。どうやってもだめだ。いつもの伊吹ならもっと言葉を選べるはずだ。状況にあわせた適当な言葉を。でもいまは自分自身のコントロールが効かない。七星から漂ってくる、この蜜の香りのせいか?  少なくとも彼を傷つけたり――嫌がられることはしたくない。 「私は……いや、すまなかった。とにかく土曜のことは偶然で、意図したわけじゃない。蓮もそうだろう。彼はきみを気に入ってる。だから私に紹介しなかった」  七星は不思議そうな目つきになったが、何もいわなかった。 「この前の事故といい……土曜といい……偶然というのは恐ろしいな。とにかく、嫌な思いをさせて申し訳ない。すまない」 「前もいいましたけど、あれは三城さんが謝ることじゃなくて……僕の方が……」  七星の返事は尻すぼみに消えた。カウンターから淹れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。匂いのなかでもコーヒーというのはかなり強烈なほうだ。それなのに伊吹が七星に感じる香りは打ち消されることがない。 「今もわかりますか? 匂い……」  七星がぽつりといった。何の話をしているかはあきらかだった。 「ああ」 「三城さんと僕、ふたりだけでいるの、だめですよね。あの検査キットがちょっと……適当だったとしても」 「……ああ。たぶん」  赤い線が頭をよぎる。たぶん? いや、そんなのは嘘だ。もしふたりだけになって、誰にも見られない、知られないとなったとき、伊吹は自分が何をしでかすか自信がなかった。  今ですら体の奥底で、こうして距離をとって立っているのが間違いだ、という感覚が疼いて仕方ないのだ。誰もみていないのなら七星をこの腕に抱きしめて、そのまま離さずにいたい。それこそが正しいはず――  伊吹は小さく首を振り、危険な方向へ走りかけた思考をふりはらった。七星と目があった。  窓の外をまた電車が通っていく。鉄橋の下は渋滞のきざしがあった。そろそろ夕方の通勤ラッシュだ。 「ここに来たのは間違っていたな」  体と心が感じていることと正反対の言葉を口にするのは苦痛だった。「すまな――」 「謝るの、やめましょう」七星がさえぎるようにいった。 「あの、ここって、九月いっぱいで終わるんです。そのあとは僕もどこか別のところへ行くし」 「え?」 「あっ、これ、外部の人にはいっちゃいけないんだった……すみません、あの、僕がいいたかったのは……三城さんとここで顔をあわせるのも九月までだから……三城さんこなくなってお客さんが減ったらみんながっかりするし……それに僕は……三城さんと知りあえて嬉しかったから……あんなことがなかったら、もっと三城さんと……」  最後まで話すのを恐れているように、七星の声はまた尻すぼみに消えかかった。しかし伊吹の体の奥には逆に力がみなぎりかける。  七星は伊吹を拒絶しているわけではなかったからだ。むしろこれは――  その先を考えるのをやめるべきだった。罪悪感と欲望のはざまでどうしようもなく気持ちが揺れた。いや、伊吹は今の位置から動くことなどできない。七星もそうなのにちがいない。  それなのに、伊吹の胸の奥底にはしてはならない期待がある。蜜の香りが伊吹を呼んでいる。と教えている。  同時に顔をあげて、目をあわせた。七星の黒い目がまばたきをこらえているように、大きくみひらいていた。七星にそんな顔をしてほしくなかった。四月のおわり、あの事故が起きる前のように笑ってほしかった。 「大丈夫だ、二度は起きない。あれは事故だったから――ほら、いうじゃないか。パーソナルスペースとか、ソーシャルディスタンスとか」 「1.5メートルでしたっけ」  ふっと七星が苦笑いをした。下手な冗談を聞いたように。緊張が抜けたように肩がすこし下がった。 「カウンター、空きましたよ」  レジの順番待ちは解消していた。だが伊吹はまだここに立っていたかった。七星にいちばん近くいられるところに。それが1.5メートルでも2メートルでもかまわない。 「コーヒーチケット」唐突に七星がいった。 「使ってくださいね。うっかり部外秘、いっちゃいましたけど、あれは秘密で」 「ああ」 「僕、行きますから」  七星はのろのろと窓際を離れた。伊吹はスーツの内ポケットに手をいれる。コーヒーチケット。暗号のようだと思った。しかし何の暗号だろう? 周囲に気づかれないふりをするための? 自分の心を無視するための?  コーヒーはテイクアウトにした。外に出ると、風が湿り気をおびてうすら寒かった。まだ五月だというのに、この先の季節を予感させる風だった。

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