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第7章 糸のゆくえ 1.篝火を待つ

 誰も自分と目を合わせようとしない。  障子の前に正座したまま、伊吹は膝に視線を落とす。蓮は宮久保家の姉妹に囲まれて、当主のすぐ近くにいる。  針のむしろというのはこういう状況を指すのだろうと、伊吹は他人事のように思う。宮久保家の盆行事は祭祀と政治がドッキングしたもので、一般家庭のものとは意味合いがちがう。会食で、オメガの末子の婿の席が本宅の家族とは別に作られているという、たったそれだけのことでも、訪問者には強力なメッセージになる。遠い縁戚や地元の有力者たちは何か起きたのを察し、横目を送ってはひそひそとささやきあっていた。  すこし前まで、こういった会合では伊吹にすり寄るように話しかける者が何人もいたが、今日は誰も近寄ってこない。伊吹は無言で終わりを待っている。  祖父母の墓参りを終えて本宅に到着したあと、今にいたるまで、言葉を交わしたのは家政婦長の窪井ひとりだ。別宅での生活に不便はないか聞かれ、このあとのスケジュールで伊吹がどこにいるべきかを指示された。  日が暮れるころには宮久保家の敷地のはずれで精霊送りの火が焚かれる。地元の人もおとずれる行事で、片付けが終わった後で当主から話があるから、勝手に別宅へ戻るな、という話もされた。  ひさしぶりに、透明人間になったような気分だった。アルファのくせに透明人間とは何事だ、と武流ならいいそうだ。どんなところでも絶対に無視されないのがアルファじゃないか。ベータの俺とちがって、と。しかし学生時代の伊吹は、三城の実家でそんな気分を頻繁に味わっている。  とはいえ、伊吹が何をしでかしたのか、家族と武流以外に真実を知っている者はいないだろう。縁戚もふくめ、外部の人間が想像しているのは、伊吹が提案した事業の失敗か、伊吹の実家の不始末にちがいない。アルファとオメガの夫婦で不倫は稀だ。万が一明らかになったら蓮もスキャンダルに巻きこまれる。警察沙汰になるようなことは宮久保家に跳ね返ってくるから論外だ。  宮久保瀧か、姉妹のひとりが匂わせるようなことをいった可能性もある。過去にも同様の不始末をしでかした婿が、同じような扱いを受けたことがあったようだ。喫煙所の横を通ったとき、伊吹は「女帝の不興は買うもんじゃない。玉の輿も厳しいものさ」とささやく声を聞いた。  だがそんな状況の中でも、伊吹は蓮の様子が気がかりだった。十日前、当主と話をしたときは、蓮はまだ知らなかったはずだ。こうやってあからさまに伊吹を遠ざけている今は、事実を明かされたにちがいない。  つがいになり、ヒートの時だけ何度か肌をあわせても、蓮と心が通い合ったことは一度もなかった。伊吹と蓮はオメガの生理的な欲求を満たすためだけの、形だけの夫婦だった。だが伊吹の裏切りを聞けば、やはり蓮は傷ついただろう。  もっとも離れた席から見ているかぎりではいつもの蓮と変わらなかった。当代の宮久保家はそろって美貌にめぐまれているが、オメガの蓮にはアルファの姉たちにない、華やぎと柔らかさが備わっている。  しかし三年も同じ家にいただけあって、伊吹は今日の蓮にこれまでとちがう表情も見て取った。誰とも話していないとき、ぼうっとしたまなざしを宙に向けていることに伊吹は気づいた。落ち込んでいるというわけではなさそうだった。夢を見ているような、奇妙なまなざしだった。  ヒートの前兆かと思ったが、その気配――匂いは感じなかった。距離のせい? それとも七星を噛んでから、ヒートのときしか交接しなかった蓮の匂いは、今の伊吹には遠いものになっているのか。  あるいは蓮は、今の状態を歓迎しているのかもしれない、と伊吹は思った。当主は蓮のために、次のヒートに合わせてアルファの付き人を選ぶといった。伊吹が瀧に選ばれたのは、宮久保家の一員としての働きも期待されてのことだったが、「付き人」にはそんなことを求めない代わり、もっと蓮の好みにあうアルファをみつくろうこともできるだろう。  しかしそんなふうに当主の意のままになることを、蓮は本当に望んでいるのだろうか。  伊吹は最後のひとりになるまで座敷に留まっていた。廊下に出ると武流が近づいてきて、隣に立った。 「おまえにも人間らしいところはあったな、伊吹」  伊吹は表情も変えなかった。 「満足したか」 「おや、そんな返事か? もっと焦らなくていいのか。俺に当主へのとりなしを頼むとか」 「それを聞きたくて残っていたのか?」 「ただ伝えておこうと思っただけさ。伊吹、おまえはできるやつだ。当主に見限られても、俺はおまえを見捨てたりしないよ。俺の手駒になれば挽回のチャンスも来る」  伊吹は無表情のまま武流をみつめた。 「断る」  睨んだつもりはなかったし、大声を出したわけでもなかった。だが武流はなぜかびくりとして半歩さがり、伊吹はそのまま廊下を行った。  この地域の精霊送りは宮久保家の敷地の西側にある広い庭園で行われる。塀と堀に囲まれた高台の邸宅からは車で坂道を下って数分の距離で、桜と紅葉の季節、そして盆の今ごろだけ、市民に公開されている。中央に小さな小山をいただき、春夏秋冬それぞれに樹木や池が美しい庭だ。宮久保家に飾られる花の一部はここで育てられていた。  精霊送りの火は毎年、小山の頂上で焚かれるのだった。地元の人々が列をなしてやってきて、小山に通じる小路を進んでいく。  蓮は長姉の楓のあとについて小路を歩いていた。母親――当主の宮久保瀧は、庭園の入口で客人と挨拶している。夕方になって蒸し暑さは減ったが、気温はまだ三十度ある。早く行事が終わればいい、と蓮は思う。昨夜、武流の会社で話した事柄が、頭の中をずっと行き交っている。 「伊吹の話、志野から聞いたのか?」  空調の音以外何も聞こえない無人のオフィスで、武流は蓮にたずねた。かすかに眉をひそめていて、それは自分を心配しているのだと蓮は受け取った。 「志野は武流が調べたっていった。ねえ、武流。僕のため? 僕のためにそこまでしてくれたの?」 「ああ。俺は伊吹が許せなかった。蓮、大丈夫か? ショックだっただろう?」 「そんなことない。僕には武流がいるから」  武流は蓮を抱きしめてキスをする。恋人の腕を感じたとたん、蓮の胸の中は甘い喜びでいっぱいになる。 「当主は伊吹を国外へやるつもりだと聞いたが」 「まさか、それだけ?」蓮は呆れた声を出した。 「どこかのオメガとやったくせに、お母様は伊吹をこのままにするつもりなの?」  自分のことを棚に上げているとは、このとき蓮はまったく思わなかった。武流は蓮の背中をあやすように叩き、耳もとでささやく。 「名族の不倫は格好の週刊誌ネタだ。当主はおまえにスキャンダルの火の粉がかからないようにしたいんだ。それに伊吹と別れても、当主はまたおまえのためにアルファの夫を選ぶだけだろう。――まさかと思うが、ヒートのたびに俺が嫉妬するのを楽しんでいるわけじゃないな?」 「そんなことあるわけない。そうだ、伊吹がいないのなら、次のヒートは武流と一緒にいられる」 「だといいが……つがいのアルファがこんなことになってしまったら、当主はきっと、次のヒートは薬で散らして本宅から出るなというさ。気持ちはわかる」 「じゃあ武流が来ればいい。外に出れないから退屈だって、僕が武流兄さんにわがままをいうのはお母様も知ってる」 「ああ、そうだな。そうするか」  ふと蓮の胸のうちにある望みがよぎった。口に出しても無意味だと思っていた望みだが、今なら―― 「……ほんとうは伊吹と別れて、武流と結婚したい」  武流は蓮の髪を撫でただけだった。 「それはないだろう。非難するつもりはないが、当主は古い考えをお持ちだからな。オメガには絶対にアルファが必要だと思っているし、俺は傍系のベータにすぎない」 「お母様はわかってないよ」 「俺はおまえと相思相愛になれただけで嬉しい。蓮、おまえは俺の秘密の宝物だ。従兄弟同士だから、誰かに話さなければ誰にも気づかれない。俺たちの関係は本物だ。結婚みたいな手続きは必要ない」  ――秘密。武流の言葉は蓮の耳に甘く響いた。  この三年というもの、ずっとそうだった。そうだ。薄暗く甘やかな秘密のとばりに覆われたこの関係は他の誰も知らないし、知られてはならない。そう思えば思うほど、逢える時間がさらに貴重で、ドキドキするものになる。  それに武流がいったように、もしも母親に知られれば、公然と反対されるにちがいなかった。血が近すぎるからではなかった。オメガの相手はアルファでなければならないと、蓮の母親が思いこんでいるからだ。武流に寄せる蓮の想いは、母親の選んだアルファとつがいになっても消えることはなかったというのに。  小路の途中で蓮は背後を振りかえった。武流はどこにいるのだろうか。昼はほとんど話もできなかった。たくさんの訪問客に伊吹が完全に無視されている一方で、武流は名刺を交換したり、談笑したりと忙しそうだった。  昨夜にしても、逢っていた時間はそれほど長くない。武流の都合も聞かず、急に会いに行ったせいだ。 「明日また会えるじゃないか」と、そのとき武流はいったが、蓮は不満だった。 「明日はずっと行事だもの。二人きりになれないよ」 「それなら精霊送りのあと――いや、篝火が焚かれたらどこかで落ちあわないか。そうだ、池の近くに東屋がある。あそこは?」 「小さいとき、やっぱり精霊送りの日に途中で抜け出して行ったね。暗くてすこし怖かった」 「今も怖いか?」  そうささやいた武流の声を思い出すたび、蓮の胸は甘くときめく。早く暗くならないかと、そればかり考えてしまう。  もちろん蓮は知る由もなかった。ちょうど同じころ、思いつめた顔つきの七星が電車を降り、駅前でタクシーを拾おうとしているのを。 「この住所までお願いします」 「ああ、お館さまのところですね」  お館さま? 七星は顔をしかめながら座席に沈み、スマホの画面をにらみつけた。タクシーはロータリーを抜け、宮久保家のある高台めざして走った。

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