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第7章 糸のゆくえ 2.金魚鉢を割る

 照井さん、ひとりで早まったことをしないように。鷲尾崎叶と境一有が、口をそろえて七星にいったのは何時間前だったか。  伊吹との不倫を不問にするかわり口を閉ざせ、伊吹に二度と会うな――というのが、八月初めに宮久保家の使いが要求したことだった。盆明けに代理人同士で話しあいの場を設けることも聞いていた。心もとない時は自分たちでもいいし、〈ユーヤ〉の魚居や祥子に相談するように、とも聞いていた。  それでも七星は今、タクシーに乗っている。  鷲尾崎と境が帰ったあと、七星はしばらくリビングにへたりこんでいた。思い返してみればたしかに、蓮は武流への率直な思いを七星に打ち明けていたかもしれない。それに夫というものがオメガには必要だから仕方がないのだという、七星には今ひとつぴんとこない話もしていた。  思い出すとあの時は、蓮をとりまく環境があまりにも現実離れしていることに度肝を抜かれていて、ただ聞き流していたのだ。そのあと伊吹が蓮の夫だとわかった時も、蓮に関わりあいたくないという思いだけが先に立って、蓮が伊吹をどう扱っているかについては考えもしなかった。  七星はそもそも最初から、四月の出会いから、既婚者を好きになった自分が間違っているのだと思っていた。つがいなのだから、蓮はそれなりに伊吹が好きなのだと――自分と彰がそうだったように、何かしら問題はあっても裏切ったりはしないものだと、何となく思い込んでいたのだ。 「だってこんなの……こんなのないですよ。伊吹さんが可哀想だ。宮久保家の人は知っているんですか?」  唖然としてつぶやいた七星に、鷲尾崎は「宮久保瀧氏が末息子の蓮を溺愛しているのは名族のあいだでは有名ですが、ベータの従兄との不倫を黙認するとは思えない。そのくらいなら結婚させているでしょう。宮久保家は昔から比較的イトコ婚が多い家系です」といった。 「結婚させる」とか「イトコ婚」とか、前時代のドラマじゃあるまいし、と七星は内心思ったが、口には出さなかった。鷲尾崎弁護士も名族のアルファだ。彼らにとっては当たり前のことなのかもしれない。  気を紛らわせるためにスマホを眺め、しばらくはニュースアプリのフィードを追った。平日でも今日までは盆休みの人々も多いようで、祭りや盆踊りといった行事の報道が目についた。アートと観劇情報のトピックに〈プラウ〉の公演情報がある。関連リンクに〈プラウ〉がオープンしてまもない時期に公開された記事があった。誘われるようにタップすると宮久保蓮の顔があらわれて、七星はスマホを落としそうになった。  気になってたまらなくても、宮久保家については検索しない方がいい。本当とも嘘ともわからない情報をどれだけ詰めこんでも疲れるだけだ――この件を相談した時、最初に魚居がそんなアドバイスをした。同じことは境一有にもいわれた。ネットの情報は真偽だけでなく、一貫性に欠けることも多い。うのみにしないようにしていても、ネガティブな情報に知らないうちに影響されることもある、という。  その時はもっともだと思ったが、七星の指は止まらなかった。検索窓に「名族 宮久保」と打ちこむ。一瞬で表示された画面をスクロールすると、あるニュースが目にとまった。 〔――市……で本日夕方から開催される精霊送り。約七〇年前から地元の名族、宮久保家所有の庭園を市民に開放して行われ……〕  七星は顔をしかめ「精霊送り 宮久保」でさらに検索を続けた。ブログが数件ヒットした。宮久保家は地域の主たる行事の重要なスポンサーらしく、うち一件のブログでは、精霊送りで当主と美人ぞろいの娘さんを目撃、という日記があった。七星はマップを開いた。精霊送りの住所を入れただけで、勝手に経路案内が出てきた。  それからマンションを出て、駅まで歩き、電車を乗り換え、駅前でタクシーを捕まえた時も、何のためにそこへ行こうとしているのか、わかっていたわけではなかった。伊吹に会えるかもしれないから? いや、それよりも、確かめたいという気持ちがあった。宮久保家という、七星の常識とはかけ離れた人々が暮らす場所を見ておきたかった。  移動の最中に魚居から連絡が入った。七星はスマホをじっとみつめたあげく、無視した。自分がやっているのは彼女の忠告とは真逆のふるまいだ。そのことは自覚していたから、うしろめたかった。 「お客さん、お屋敷の方でいいですか? それとも精霊送り?」  タクシーの運転手がたずねた。七星は「あ、お、お屋敷……」ともごもご答えてしまったが、運転手がハンドルを切ったとたんに後悔した。そこを訪ねる口実など何もないのだ。でも今さらUターンを頼むのも気まずい。  坂道の片側は白い塀で、その向こうには樹木の暗い影がある。まもなく前方に大きな門があらわれた。 「あ、ここでいいです」  七星は急いでいって、タクシーを下りた。  道幅いっぱいの門は固く閉じられている。防犯カメラが一つ目の妖怪を連想させて、七星はそっと後ずさった。わざわざどっちへ行くかと聞かれたくらいだ、精霊送りの会場は遠いのだろうか。どうしようかと迷ったとき、門がゆっくり開きはじめた。  七星はその場に立ち止まり、塀のすぐそばへ一歩下がった。開いた門から真っ赤な車が出てきた。前を通り過ぎると思ったのに、車はすぐ先で停止し、運転席の窓があいた。 「もしかして、迷われました?」  蓮によく似た美しい顔立ちに七星はハッと息を飲んだが、声の主はアルファの女性だった。 「あの、えっと、精霊送りって、どこで……」 「坂をおりたところを左にぐるっと回るの。歩きだとけっこう距離あるけど」 「あ、大丈夫です。ありがとうございます」  女性はすぐに走り去った。蓮の家族だろうか。彼がどこにいるかたずねても良かったかも。でも、七星はここへ呼ばれたわけではなく、押しかけてきただけだ。  七星も車のあとを追うように坂道を下りはじめたが、しだいに妙な落胆と緊張が襲ってきて、いったい自分は何をしにここまで来たのか、またわからなくなった。こんなに高い塀に囲まれたお屋敷に住んでいる人たちに関わろうとするなんて。  女性が教えてくれた通り、坂道を下りて左方向へ歩くと、まもなく精霊送りの会場がわかった。手前の駐車場にはたこ焼きやりんご飴、焼きそばの屋台が並んでいるが、家族連れが二組いるだけで、奥から笛の囃子が聞こえてくる。さっきの赤い車が駐車場のいちばん隅に停まっていた。  広い庭園はところどころ照明に照らされている。いつのまにかすっかり暗くなっているのに、どこかで蝉が一匹、うるさく鳴いている。七星は人気のない砂利道を歩きはじめた。ゆるやかな坂をのぼって囃子の音の方へいくと、小高い場所でオレンジ色の炎がちらっと光った。そっちへ向かおうとして、七星はふと足を止めた。  きれいに刈りこまれた樹木のあいだを白っぽい人影が通ったのだ。すぐに見分けることができたのは、ついさっきよく似た顔立ちの人と話したせいにちがいない。それに細いシルエットと踊るような足取りは〈ハウス・デュマー〉のダンスフロアで見たものと同じ。蓮だ。  七星は砂利を蹴って横道にそれた。 「宮久保さん!」  駆け寄りながらあげた声は思いのほか大きく響き、蓮は驚いた顔でふりかえった。 「七星じゃない。どうしてここに?」 「宮久保さん、」 「名前呼びでいいよ。今は時間がないから、またあとで」  立ち止まった七星に、蓮はあっちへ行け、とでもいうように手を振った。まとわりつく虫を追い払うような仕草だった。  怒りがこみあげてきたのはそのせいだろうか。七星の口からはさっきよりずっと尖った声が飛び出した。 「待って! 聞きたいことがある」  蓮は苛立った様子でさっと左右を見渡した。七星は小路が黒々とした池の縁に沿っていることに気づいた。黒々とした水面に白い照明が月のように映っている。白い光に照らされて、池のほとりの樹木はつくりものめいた光沢を帯びている。 「何なの、いきなりやってきて。僕は急いでるんだよ。また遊びたい時は誘うから」  七星は蓮の正面に立った。 「そんな話じゃない。蓮、春日さんとはいつから?」  蓮の肩がかすかに揺れ、すぐ元に戻る。口もとに微笑みが浮かんだ。 「七星、何の話してるの?」 「春日武流との関係だよ」 「だから何――そうか、七星には武流の話、けっこうしたかもね。でもそれなら覚えているでしょ。従兄だよ」 「春日さんは〈ユーヤ〉のお客さんだから、僕は何度も会ってる。春日さんはうちの打ち上げにきたし、一緒に飲み屋に行ったこともある。聞いてない?」  蓮のまぶたがぴくっと動いた。 「へえ、そう……知らなかったけど、武流は仕事柄つきあいの幅が広いし、いちいち僕にそんな話するわけないだろう。それで、七星は何を聞きにきたの? そんなにあわててさ」 「僕は見たんだ。春日さんと蓮がキスしてる写真」  蓮の目が大きく見開かれる。 「……写真?」 「昨日の夜撮った写真だ。はっきりみたよ。蓮が春日さんと車に乗って――」 「どこで……」 「蓮は伊吹さんと結婚しているのに、どうしてそんな」  七星の喉はぐっと詰まって、最後までいえなかった。その一方、蓮は不思議そうな顔つきになり、何度かまばたきをした。 「伊吹? どうして伊吹の話になるのさ。僕と武流のことも、伊吹のことも七星には関係ないよね? なぜ……」  蓮の唇が半開きになり、一瞬固まる。 「まさか伊吹の相手のオメガって、七星なの? それで武流は……」  七星の声は自然と大きくなった。 「あの人は最低だ。僕と伊吹さんを嵌めた。でも蓮もつがいを裏切ってた、そうだよね? 伊吹さんは知らないんだろう?」 「……その写真、七星が撮ったの? こそこそ調べるなんてひどい」 「ひどいのはどっちだ。蓮は伊吹さんのつがいじゃなかったのか!」  蓮の右手が伸びて七星の肩をつかんだ。七星は振り払おうとしたが、シャツの襟を引っ張られて首が締まった。ズボンが足もとの植栽をかすり、小枝がポキッと鳴る。スニーカーが池の縁の石を踏む。 「仕方ないじゃない。お母様はアルファじゃないと駄目だっていうから。嵌めたって何? 知らないけど、武流がやったのなら僕のためだよ。武流は僕が好きなんだから」  薄暗い中で、蓮の白目がやけにはっきり見えた。足がずるっと滑る。あっと思った時、七星は背中から池に落ちていた。水に頭がつかったのは一瞬だったが、池の縁の石に脛がぶつかり、ずりっと擦りむいたのがわかった。浅いプール程度の深さだったが、七星はバシャバシャと水音をたて、しばしもがいた。どこかで女性の声が響いた。 「蓮!」 「池に落ちた人がいます。誰かタオルを。暗いから懐中電灯も。急いで」  七星はやっと底に足をつけて立ち上がった。手にからみついた水草をはらって、顔にしたたる雫をぬぐった。門の前で会ったアルファ女性が蓮に駆け寄った。そのうしろにいる着物姿の女性はずっと年上のようだ。石を足掛かりにして岸によじ登ると、いったん土に尻をつけて座った。脛がずきずき痛むし、夏の夜のぬるい空気の中でもずぶぬれだと寒気がする。 「いったいどういうこと? 武流さんとって――どうなってるの、蓮!」  頭の上で鋭い声が響いた。七星は首を曲げてそっちを見た。蓮と、きっと彼の姉妹にちがいないアルファが向かい合っている。 「どうなってるって……志野にはいわなかったけど、ほんとのことだから」 「待ちなさい、武流さんは私と……」 「ああもう、志野も何いってるのさ。武流と何があるの?」 「武流さんは私と結婚するのよ、蓮。七月末にお母様にもお許しをもらって……」 「え?」  蓮の表情が凍りついたように動かなくなる。なまぬるい風が濡れた服を撫で、七星は立て続けにくしゃみをした。パタパタと足音が響き、着物の女性が寄ってくると乾いたタオルを渡してくれた。顔を拭こうとするとふわりと甘い香りが漂った。七星の心臓がどくんと鳴った。 「照井七星さん、私が宮久保瀧です」と、着物の女性がいった。  ハッとして七星は相手を見返した。この人が宮久保家当主なのだ。  優雅さと厳しさをたたえた名族のアルファの雰囲気に、いつもの七星ならすくんでしまっていただろう。しかし次の瞬間、宮久保瀧の背後から漂ってくる強い香りが呪縛を解いた。口から飛び出したのは宮久保瀧への返事ではなく、〈運命のつがい〉を呼ぶ声だった。 「伊吹さん!」  宮久保瀧は奇妙な目つきで七星をみつめ、それから小さくため息をついた。 「屋敷へおいでなさい。そのままでは風邪をひくわ」

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