50 / 56

第7章 糸のゆくえ 3.船が出る日

 予感と呼ぶには大げさすぎる。しかし八月十五日の午前に七星のマンションを出た時、境一有にはそこはかとない不安があった。その不安は日が暮れるころ、的中してしまったかもしれない。 「自宅にはいないようだ」  今日二度目の訪問をシートベルトを締めながら一有はスマホに向かって話した。 『亡くなった夫の実家という可能性もある』と叶が答える。 「たしかに。まだお盆だからな」  魚居蘭が加賀美光央に、急な用事で七星に連絡しようとしたのに電話がつながらないしメッセージに既読もつかない、と話し、加賀美から叶に問い合わせが行くまで十五分。一有は連絡を受けて七星のマンションへ急行したが、窓は暗く、ベルを押しても返事はない。  魚居とパートナーの祥子が心配しているのは理由がある。照井七星の交友関係はけっして広くない。親は遠方に住んでいて、ふだんのつきあいは〈ユーヤ〉の周辺だけ。死んだ夫の実家とも今はそれほど連絡をとっていないようだ。しかし〈ユーヤ〉関連のメッセージを無視したり、連絡がつかないということは基本的にないという。  オープンなSNSは「見るだけ」派。出会い系アプリどころか、〈ハウス〉にも行かないとヒアリングで聞いた。宮久保蓮に連れていかれたハウス・デュマーには成り行きで会員登録をしたというが、名族御用達のハウスへ気軽に遊びに行くタイプではない。  七星にとって、宮久保蓮と春日武流の不倫の証拠は相当強烈なものだったはずだ。ほとんど不可抗力だったにもかかわらず、伊吹と関係したことを悔いていただけに、怒りも強いはずだ。おまけに自分が動けないことに苛立っていた。  早まったことをするなといったのは逆効果だったかもしれない。 「キョウ、宮久保家の方は何かあるか?」 『今の時期は地元の行事で忙しいらしい。実はさっき、向こうの代理人に別件で連絡を入れたんだが、今日は何かやっているので返事が遅くなるかもしれないと――ちょっと待ってくれ、加賀美さんから電話だ』  保留音を聞きながら一有は車を出した。通話が切り替わったのは住宅街を抜けたころである。 『今日は精霊送りの行事をやっているそうだ。地元の人間も参加する行事で、宮久保当主や家族も会場に顔を出すらしい。宮久保伊吹に会えるかもしれないと照井君が思った可能性はある』 「了解。そっちへ行ってみよう」  一有はカーナビをセットした。どのみち、宮久保家のお屋敷は一度拝んでみたかったのだ。  広壮な宮久保邸の一室で、家政婦長の窪井は日誌を開いていた。この家に仕えるようになってから、欠かさずつけている日誌である。  窪井は自分の仕事を「内」を整えておくことだと心得ている。たとえば一族が集まる会食や法事は「内」の仕事で、今日の昼間はこれに忙殺された。しかし地元民やメディアがやってくる精霊送りは「外」の行事だから、窪井が関わることではない。それでも日誌に「外」の出来事を記録することもある。  先月末からこの家はいつになく揺れている。  窪井は志野と春日武流の婚約を他の家族に先んじて知っていた。宮久保瀧は長年、「内」についての重要なことがらについて、最初に窪井にうちあけていた。志野と武流という組み合わせは意外だったが、親族としてもともと知っていた二人が友情以上の関係になるのは珍しいことではない。当主が二人の婚約を許したのは、次女の葵が起業に夢中で身をかためる素振りが見えないせいもあるだろう。  もっとも許しをもらったとき、武流はまだ公表を慎重にしたいといい、姉たちや蓮には自分で話すから、と志野も釘をさした。今思えばこれは幸いだった。まもなく明らかになった蓮の夫の不始末は、宮久保家にあるまじきことだったからだ。スキャンダルになれば、めでたい話もかすんでしまう。  重要なのは「外」にこの話を漏らさず処理することだ。そのために瀧は、もっとも信頼するベータの窪井に相手のオメガをたずねさせた。ところがそこに他家のアルファが介入して、話はすっきりと終わらなくなった。  さっきかかってきた顧問弁護士の電話も、きっとこの件に関係している。日誌を書こうとペンを握ったときに鳴ったのだ。家族にしか話せないというので、ちょうど精霊送りへ向かおうとしていた志野に取り次いだが、彼女は二言三言話して電話を切り「お母様に知らせないと」といって出て行った。  その電話がまた鳴った。窪井はペンを握ったまま左手でとった。 『窪井さん、急いでこっちに車を一台回して』  志野の声である。窪井は眉ひとつ動かさず「かしこまりました」と答えて受話器を置くと、右隣に置かれたもう一台の受話器を上げて短縮ダイヤルを押した。待機している運転手に用件を伝えたとき、また最初の電話が鳴った。今度も志野だった。 『池に落ちた人がいるの。濡れているからお風呂をおねがい』 「子供ですか? 怪我は?」 『いいえ……家のお客よ。血は流してない』  家の客? ということは、精霊送りを見に来た地元の子供がはしゃいで池に落ちた、といった事故ではない。つまり「内」の問題である。 「どなたが池に落ちたんですか?」 『いいから急いで。すぐ連れて行くから』 「かしこまりました」  志野の声のトーンがいつもとちがう。いったい何が起きたのか。窪井は受話器を置くと、もう一台の電話で一階を担当する家政婦を呼びだした。 「客間の浴室にお湯はりを。作務衣と救急箱も用意してください」  また別の短縮ダイヤルを押す。この屋敷では、運転手その他の車係はガレージにつながる棟にいて、警備スタッフも同じ建物に詰めている。車はもう出発していて、話しているうちに現地へ到着したようだ。  池に落ちた人物が自分で歩いて車に乗った、という運転手の報告に窪井は安堵して、玄関へ迎えに出た。まず車寄せに着いたのは志野が運転する真紅の車で、後部座席から瀧と蓮が降りてきた。  窪井は蓮の顔色があまりにも悪いことに驚いたが、本人は窪井など視界に入っていないように、顔をまっすぐ前に向けたまま中へ入っていく。志野は運転席から下りると、車係に鍵を投げ、うしろに停まった車のそばへ行った。 「武流さんの居場所はわかる?」  瀧がきつい声でたずねた。凍った刃のような怒りの気配があった。 「四時ごろ出て行かれて、その後は存じません。精霊送りまでに戻るとおっしゃったので、庭園にいらっしゃるのでは?」  そういったとたん黄色のスポーツカーが門を入ってきた。春日武流の車である。しかし玄関ではなく、親族の駐車スペースがあるガレージの方へ向かった。 「彼を連れてきて」  瀧は志野の車係にひとこと告げると、もう一台の車へ顎をふった。 「彼らを頼むわ」  彼ら? 窪井は怪訝に思ったが、瀧はもう玄関をくぐっていた。志野は二台目の車から降りた人物を隠すように立っている。 「志野様、一階の客間に用意しています」 「ありがとう。私と伊吹さんで案内するから、あなたはいい」  窪井は一礼して後ろに下がったが、車から降りた人影をみて思わず眉を上げた。照井七星だ。  なぜここに? その手を伊吹が握っている。窪井はまばたきした。何があっても冷静だったアルファの目の奥に、名付けようのない炎のようなものが見えた。  宮久保瀧は蓮を生けた花台の前に立っていた。精霊送りは何事もなく終わり、庭園も片づけられた。本来なら家族で夜食にする時刻だ。しかし執務室にはヒリヒリとした空気が漂っている。  当主が組んだ腕をほどき、すぐ前の椅子に座った娘たちをみつめた。楓、葵、志野。伊吹は壁際に立ち、最後に入ってきた武流はその隣で、落ちつかない様子で膝を揺らしている。蓮の姿はない。  伊吹はまだ事態のすべてを把握していなかった。池に誰か落ちたと聞いて伊吹が真っ先に駆けつけたのは、人目を避けるためずっと世話係のテントにいたためである。落ちたのが七星だとは思ってもみなかったが、小路を下っていくとすぐ、蜜の香りが伊吹を捕らえた。  池のほとりで志野と蓮が口論しているのは見たが、内容は聞いていない。七星に会えたことで頭がいっぱいで、それどころでなかったのだ。本音をいえば今も、客間にひとりでいる七星が気になって仕方がない。蓮に話があったのだと七星はいった。話している最中に、足を滑らせたのだと。 「いったい私は誰の話から聞けばいいのかしら」  当主が棘のある声でいった。  楓と葵が困惑したように目を見かわした。志野がこわばった声で答えた。 「お母様、武流さんが蓮と不倫していたなんて、私が知るわけない」 「――え?」  伊吹の口から思わず声が出た。間髪入れず、武流が叫んだ。 「まさか、志野。蓮が勘違いしているんだ。それは……」  志野はキッと武流をみつめる。 「何をいってるの? 武流さん、まさか蓮のせいにするつもり? ここに連れてきて、もう一度話してもらう?」 「やめなさい!」  瀧がぴしゃりといった。 「志野と蓮が話しているのは私も聞いたわ。武流さん、ここへ」  思いがけない展開に、伊吹はその場に立ち尽くしたまま部屋をぐるりと見渡した。武流は背筋をこわばらせ、膝を不自然なほど伸ばして数歩進み、当主の前に立った。  志野は座ったまま武流を睨みつけている。瀧の顔は能面のような無表情で、目だけが厳しかった。他の姉妹はただ呆れているようだ。 「武流さん。あなた、蓮とそういう仲になって、どのくらい経つの?」  武流の頬が痙攣するようにぴくりと動いたが、すぐに元に戻った。 「当主、その……ここには伊吹もいるんです。いくら彼が不貞を働いたからって、ここでそんな……」 「はぐらかさないで。伊吹さんの件はこれとは別です。蓮は結婚する前からといいました。あなたは蓮と隠れてつきあって、それを明かさないまま志野と婚約しようとした」 「それはつまり……俺、いや、私は拒めなかったんです。蓮の好意を……そのまま断ち切れなかったのはまずかった。でも私も男だし、オメガの蓮は好きでもないアルファの男とつがいにさせられて可哀想だと思って……それで」  扉のむこうでガタリと大きな音が響いた。 「誰?」  当主が大きな声でいった。ドアノブが動き、音もなく扉がひらく。  蓮が立っていた。そのうしろに七星がいる。伊吹には扉がひらいた瞬間にわかっていた。濡れた服のかわりに作務衣を着て、蓮がその手首を握っている。  武流の顔に怯えたような表情が浮かんだ。蓮は七星の手を離し、優雅な足取りで部屋に入ってきた。視線はまっすぐ武流に向いている。 「可哀想、か。武流は僕のことをそう思っていたんだね。知らなかった」 「蓮、その……」 「志野とのこと、僕にどう話すつもりだったの? オメガの僕にはヒートのとき、アルファの夫が必要だから、とか? 志野と結婚したら毎日会えるから、とか? 本当に好きなのは僕だけど、ベータとの結婚はお母様が許さないから?」 「蓮」 「……たしかにそういわれたら、僕は納得したかもね」 「待て、蓮――」  扉の方へ振り向いた蓮に武流の手が伸び、肩をつかんだ。 「触らないで!」  反射的に伊吹は動いた。大股の二歩で武流の横に行き、その手を振り払ったのだ。武流が目をむいて伊吹を睨んだ。 「しゃしゃり出てくるな、伊吹。そもそもはおまえが悪いんだぞ!」  そのとたん、伊吹は拳をかためて武流を殴った。  腹の底に溜まっていた怒りが、いや、それ以外の感情が、一気に噴き出したようだった。不意打ちをまともにくらった武流がデスクの上に倒れ、楓が小さな声をあげる。伊吹は拳を握ったまま、その場に立ち尽くした。蓮が小さく肩をすくめたが、それはこの場に似つかわしくない、ひどく美しい所作だった。 「お母様、僕は休みます」 「眠れそうになかったらハーブティーを作ってもらいなさい」 「はい」  蓮は武流を見もしなかった。黒い目を大きく見開いたままの七星を押しのけて、廊下へ出て行く。  武流は顔をしかめながらよろよろと立ち上がった。伊吹は手をおろしたが、右手は固く握ったままだった。瀧は散らかったデスクを眺め、小さくため息をついた。 「ところで武流さん。あなたが持ってきた蓮の夫の不貞の証拠だけど、犯罪者の手を借りて、違法行為もしたようね」  武流はまだ顔をしかめていたが、それを聞くとあわてたように姿勢を正した。 「え? いや、それは……何のことです」 「あなたの友人が逮捕されたのよ。こともあろうに鷲尾崎家からこんな情報を流してもらうなんて。あなたにも参考人として警察から出頭要請が来るでしょうね。私の子供たちを弄んだだけでなく、このままでは宮久保家の名に害が及ぶところだった」 「当主、それは……」 「話は弁護士が聞きます。明日来るから、今日は離れに泊まりなさい。窪井さん、案内を」 「はい」  家政婦長の顔を見て、武流はあきらめたように肩を落とした。ふいに電話が鳴りひびき、全員がぎょっとした顔になった。 「あ、すみません、僕です」  七星がおずおずとスマホを耳に押し当て、廊下に出た。 「照井です。境さん? すみません、水に落ちちゃって電源が……今ですか? その……ごめんなさい、実は……」 「伊吹さん」  瀧が鋭い声で伊吹を呼んだ。 「話があります」  伊吹は顔を上げ、武流が家政婦長のあとについて部屋を出て行くのをみた。肩が落ちているせいか、ひとまわり小さく見える。当主の娘たちも立ち上がり、執務室を出て行こうとしていた。最後に志野が扉を閉めると、廊下からわずかに漂っていた七星の声と香りがシャットアウトされたように消えた。  当主と二人だけになったとき、伊吹は突然、自分がこの半月というものどれほど孤独だったのかを理解した。早く行かなければ。七星とまた離れてしまう。だが宮久保瀧は伊吹に向かって、まだ何か告げようとしている。 「伊吹さん。あなたとあのオメガのあいだに起きたことは、なかったことにはならない。しかしあなたには……申し訳ないことをしました。私は蓮をもっと見ておくべきだった」  むしろ逆ではないか。あなたは蓮を自由にするべきだった。  内心の声は表には出ない。伊吹は当主の顔をみつめたが、何もいわなかった。ながい沈黙がつづき、当主の顔にうっすらと困惑の色が浮かんだ。 「でも、あなたを選んだ私の目に間違いはなかったと思っています。あなたは有用な人材よ。宮久保家に必要だわ」 「いいえ」  ついに伊吹は口をひらいた。 「私は取引をするつもりで宮久保家に来て、あなたと取引をした。蓮ではなく。でも本当は、蓮が自分で選ぶべきだった。あなたは間違っていたし、私も間違っていた。私も蓮も、自分の人生を取り戻さなければならない。私は蓮と離婚します」  軽く礼をして、きびすをかえす。一度も振り返ることもなく、伊吹はその部屋を出た。

ともだちにシェアしよう!