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第7章 糸のゆくえ 5.短冊の願い

 黒い水をたたえた池のほとりで、蓮が伊吹の腕に手をからませている。  七星はふたりの方へ行こうとするが、砂利が靴にまとわりついてなかなか前に進めない。池が黒くみえるのは夜を映しているせいだ、と七星は思う。しかし空は明るい灰色で、ちっとも夜のようではない。  蓮は七星をみてにっこり笑うが、なぜか伊吹の顔が七星にはみえない。池の表面が泡立ち、はじけて、シューシューと音を立てる。 (僕のものなのに、勝手なことをしないでよ)  ちがう、と叫ぼうとした声が喉につまった。七星はタオルケットをはねのけた。  つけっぱなしのエアコンがシューシューと音を立てている。  夢だった。夢でよかったと思ったとたん、ほんとうにただの夢なのかという疑問がうかんで、いやな気分になった。  じっと手のひらをみつめる。たった一日のあいだに色々なことが起きた。その結果、伊吹に会えた。話をして、彼の香りと体温を――手のひらのぬくもりを感じられた。  ものすごく嬉しかったにもかかわらず、昨夜、迎えにきた境一有が運転する車の中で、七星はひどく後悔していた。  自分のやらかしたことをひとつひとつ思い出していたせいだ。蓮を問い詰めるうちに池に落ち、宮久保家まで連れていかれ、風呂を貸してもらった。服が乾くのを待っているあいだに蓮がやってきて、何を思ったか七星を強引に上の部屋へ連れていったのだ。宮久保家のアルファ女性が勢ぞろいしているところへ。  七星は部屋に入らなかった。目の前に繰り広げられる修羅場をぼうっと見ていただけだ。考えてみるとこれでおわればまだよかったと思う。ところが帰りぎわに蓮を怒鳴りつけてしまったのだ。  門の外で待っていた境が何ひとつ非難がましいことをいわなかったのは救いだったが、それにしても……。  ふいに彰のことを思い出した。彼を亡くす二週間前、スーツをクリーニングに出そうとしたとき、内ポケットからアトマイザーが出てきたことがある。それまで彰が香水を持ち歩くことなどなかったから、七星は何気なく指摘した。すると彰は急に不機嫌になり、勝手なことをするなといったのだった。おまえは俺のものなんだから、よけいなことを考えるな、とも。  裏切っていてもまだ自分のものだと、人はいいたくなるものなのか。  床の上でスマホが鳴った。眠っているあいだにメッセージがいくつも来ている。鷲尾崎弁護士。それに伊吹からも。  七星はそわそわと立ち上がり、スマホを持ったまま家の中を歩き回った。鷲尾崎からは、魚居に許可をとったので今日の午後〈ユーヤ〉で打ち合わせができないか、という連絡だった。了解の返信を送り、リビングへ行き、意味もなく窓のそばに立って、どきどきしながら伊吹のメッセージを読んだ。 〔昨日はありがとう。何年か、このままでいいと諦めてきたことに立ち向かってみようと思いました。夕方、ユーヤに行きます。会えると嬉しい〕    なぜか目がうるんできて、鼻の奥が痛くなる。七星は震える指でスマホをなぞった。僕も待っています、と返信した。すぐに既読がついてほっとする。おかげでひさしぶりに朝食をしっかり食べることができた。 「七星、ちょっと」 〈ユーヤ〉の事務所に入ると、魚居がおいでおいでをして七星を呼ぶ。 「つかぬことを聞くけど、このあと行く場所って、もう決めた?」  このあと。つまり九月末で〈ユーヤ〉が終わってからのことだ。  もともとフルタイムのスタッフは少なく、個人事業主との兼業だったり、大学院とかけもちしている人もいた〈ユーヤ〉である。盆休みの前に辞めて次の職場に移った人もいれば、秋から留学する人もいるらしい。マツさんのような技術スタッフのベテランは嘱託の仕事がいくつか舞いこんでいるようだった。  しかし七星はまだろくに動いていない。転職サイトのチェックはしているものの、八月になってからはそれどころでなかったし、いまだに履歴書も職務経歴書も書いていない。 「いえ、まだ特に……」 「それならいいか。知人のところでスタッフを募集してる。来年オープン予定の大きな施設だよ。興味があるならエントリーしてみてはどうかと思った」  魚居は気軽な口調でいった。 「どんなところですか?」 「ウェルネスとサステナビリティがテーマのアートスペースという話だ。中にサウナを作るそうだよ。展覧会経験があるプロジェクトコーディネーターとアシスタントを募集している。七星はうちでの経験もあるし、ソフトも使えるだろう。優遇条件を満たすはずだ」 「サウナ……」  魚居はニヤッと笑った。 「〈ユーヤ〉の次に行くにはいいかもね。メールでリンクを送っておくから、興味があるなら早めに連絡しなさい。応募書類のドラフトをみせてくれたら、喜んで添削するよ」 「ありがとうございます」  七星はぺこりと頭を下げて、自分の机に座った。  お盆休みもだいたい終わって、街はいつもの様子に戻っている。八月十六日、旧暦七夕の八月二十二日までは残り六日。〈ユーヤ〉のイベントもその日に終わる。  カフェスペースの笹飾りはすっかり姿を変え、いまや天井を覆うように広がる、不思議な形のインスタレーションになっていた。来場者が願いごとの短冊をどんどん増やしていった結果だ。  今日は公演もトークセッションも展示替えもない。〈ユーヤ〉の集大成となる書籍の編集作業は順調に進んでいて、七星の仕事も返事待ちや確認待ちが多かった。暇なせいか、伊吹のメッセージを思い出し、落ちつかなくなる。  三時に鷲尾崎がやってきて、魚居が事務所の応接スペースを開けてくれた。鷲尾崎の話は「いい知らせ」だった。今や先方は伊吹と七星の関係を一方的に責められない状況にある。しかし蓮と武流の不倫という、宮久保家にとって不都合な情報を口外させないために、何らかの誓約は求めてくるだろうという。 「僕は伊吹さんに会えるのなら、それでいいです」と七星はいった。 「宮久保さんの方も、ご本人が必要なら私が代理人を申し出ます。事態は前に進みましたから、落ちついてください」  三十分もかからずに話はおわり、七星は鷲尾崎と一緒に事務所を出た。カフェの方からあの香りがした。  伊吹――  伊吹はさっと七星の方を向いた。七星の頭の中は興奮と喜びで一気にピンク色に染まった。一瞬おくれて、向かい側に加賀美が座っていることに気づいた。  ふたりは同時に立って七星の方へやってきた。加賀美が「七星君。それに鷲尾崎君、彼が三城伊吹さんだ」と鷲尾崎に紹介し、長身のアルファ三人が七星を囲むように立った。だが、七星の目は自動的に伊吹の方をみてしまう。  すっと伊吹の背中が動いた。加賀美と鷲尾崎の目から隠すように七星の斜めまえにくる。  加賀美が口もとをほころばせ、鷲尾崎がさりげなく一歩下がった。 「友人たちを思い出すよ」と加賀美がいった。 「〈運命〉に出会ったアルファは猛獣も同然だ」 「……そのつもりは。申し訳ありません」  伊吹が気まずそうにいい、加賀美の目のまわりに笑い皺があらわれた。 「いや。きみが意固地にならずにSOSを出してくれたのはよかった。今日の話も前向きに考えてもらいたい。自分でも考えたことはあっただろう?」 「方向性としては検討していましたが、自分で取り組むのもなかなか難しく……それに今はまず、私自身の進退を決めなければなりません。身辺の整理もふくめて」 「そこは鷲尾崎君が力になってくれる」  ふたりが何の話をしているのか、七星にはわかりかねた。加賀美が何かのオファーを出したのだろうか。 「私は〈運命〉のあいだを取り持つのが趣味でね」と加賀美がいった。 「鷲尾崎君、行こうか。きみには別件で相談がある」 「了解です。では」  笹飾りの下で伊吹が礼をしてふたりを見送り、七星もそれにならった。アルファたちと入れ違いにグループ客が階段を上ってきて「よかった空いてる」といいながら窓際のテーブルに陣取った。  にぎやかな話し声が響いたとたん、急に伊吹とふたりでいる、という自覚が強くやってきた。隣に立っているだけなのに、七星を包むように伊吹の匂いがするのだ。  どちらからともなく顔をみあわせたが、妙にぎこちない感じになってしまった。七星は視線のやりばに困り、天井をみた。短冊がひらひら揺れている。 「ずいぶん変わったね」と伊吹がいった。 「ええ。笹飾りっていうより……葉っぱのあいだを魚が泳いでるみたいでしょう?」 「なるほど、川になったわけだ。願いごとを泳がせるのか」  七星は口をつぐむ。話したいことはいろいろあるはずなのに、すぐに言葉が出てこない。 「伊吹さんは願いごと、書きました?」  やっとのことでそうたずねると、伊吹は七星の目をみつめて聞き返した。 「七星は?」 「僕のもどこかに下がってます」 「私の短冊もどこかにある」  伊吹はいったい何を願ったのだろう。  知りたくてたまらなくなったが、聞いたら最後、自分の願いごとも白状しないとフェアではない。ところが七星が短冊に書いた言葉は、伊吹を前に口にするにはあまりにも恥ずかしいものだった。 「あの、伊吹さんは大丈夫……なんですか? ここに来ても……」  七星は話を変えて、もっと聞きたかったことをたずねた。伊吹は小さくうなずいた。 「職場は休みをとっている。昨日は嫌な思いをさせてすまなかった」 「でもそれは、僕が勝手に行ったから」  伊吹はボソッといった。 「学生のころ一年ほどボクシングジムに通っていた。それ以外で人を殴ったことはない」 「……ああ。武流さんの」 「彼と蓮のことだけじゃない。たぶん、あの家に自分から囚われに行った自分に……腹を立てていた。蓮と結婚したのはある種の取引だった。どうしても手放したくないものがあったんだ。でも、もういい」 「伊吹さん」 「蓮と別れる。ただ他にも……片付けなくてはならないことがある。終わればきみと……ふたりだけで会える。できるだけ早くすませる。今月中は無理でも、来月には。だから……」 「大丈夫です。待ちます」  窓際のテーブルでにぎやかな笑い声があがった。「行かなくては」と伊吹がいった。 「外まで一緒に行きます」  肩をならべて歩き、ゆっくり階段を下りた。しめしあわせたわけでもないのに、七星も伊吹ものろのろしていた。一階までたどりついたとき入口の扉がひらき、また客が数人入ってきた。  七星はとっさに伊吹の手をとり、地下へつづく階段を下りた。ぎゅっと手を握って、一段ずつゆっくりと。  そのあいだもひとことも話さなかった。公演がない日の地下通路は暗く、階段の終点に間接照明がひとつ灯っているだけだ。ホールのドアが黒い穴のようにみえる。 「行かないと」と伊吹がいった。 「はい」  七星はこたえたが、手を離したくなかった。伊吹をひきとめておくわけにはいかないとわかっているのに。  ふいに伊吹の腕が肩に回された。背中をコンクリートの壁に押しつけられる。 「七星、毎日電話する」 「……僕も」  むせるのではないかと思うくらいの甘い香りが七星をつつむ。なかばひらいた口に伊吹の唇が重なった。無意識に差し出した舌と舌が触れたとたん、うなじから背筋にかけて震えがくだっていく。七星は鼻から甘い香りをさらに吸いこんだ。  伊吹の舌がからむたびにあの日噛まれたうなじの傷が震え、腰に達して甘い疼きに変わる。肩を抱いていた手がさがり、Tシャツの上からわき腹をぎゅっとつかんだ。体を押しつけあいながら、何度も舌を吸う。このまま欲望の堰を壊してしまいたいのに、それができないもどかしさとせつなさで、胸の奥が痛くなる。  どのくらい時間が経ったのか。階段の上でけたたましい笑い声が響き、ふたりは同時に我にかえった。  無言で体を離し、乱れた服を整える。伊吹はハンカチを取り出すと、唾液に濡れた七星のあごと首筋をぬぐった。 「行こう」  また手をつないだ。ふたりで階段を上り、扉をあける。伊吹は夕暮れの街へ出て行った。七星は戸口に立ったまま、しばらく後ろ姿を見送っていた。

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