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第7章 糸のゆくえ 6.声の届く場所
リズミカルな音を立てながら電車が鉄橋を走り抜ける。〈ユーヤ〉の窓ガラスには雨粒がぽつぽつくっついている。台風の影響で昨夜から今朝にかけてすさまじい大雨になり、昼前まで断続的に降りつづいていた。
「まだ日も高いですが、今日はお集りありがとうございました。みなさんのご協力のおかげで〈ユーヤ〉最後の企画を無事終わらせることができました」
魚居があらたまった口調で宣言し、パラパラと拍手が起きる。七星はカフェカウンターの横に立っている。九月九日、土曜の午後。カフェには十数人しかいないが、これから増えるはずだ。まだ昼の一時である。
これまで七星が参加した打ち上げやオープニングパーティと雰囲気がすこしちがう気がするのは、きっと今日の集まりが〈ユーヤ〉の事実上のクロージングパーティになるからだ。
それでも湿っぽい雰囲気はない。カフェに隣接するイベントスペースは開放され、奥の壁にはプロジェクションが光っている。今までこの場所で行われた公演や展示の記録映像が流れる中、左右の壁では常連の絵描きによるライブペインティングが進行中。一階のギャラリーも二日前から学生のリクエストで落書き用に解放され、おもちゃ箱のように絵や文字が散らばる空間になった。
「ところで今はコアなメンバーだけだから話しておきますが、私と祥子は現在新しい家族を迎えるために動いてます。それもあって今回〈ユーヤ〉は畳むことにしました。ですがまた別のプロジェクトや場所で顔をあわせることもあると思う。その時はどうかよろしく」
一瞬だけ間があいて、小さなどよめきと共にまた拍手が起きる。さっきより大きな拍手だ。
「じゃ、一回目の乾杯をしましょう」と祥子がいった。
「どうせ何回もするから、最初はマツさんがいいかな?」
「なんで俺?」とマツ。
「九月になってもタンクトップ着てるから」
七星は吹き出しそうになる。マツは夏のあいだ、ぴちぴちのタンクトップにトレーニングパンツという筋トレスタイルで〈ユーヤ〉を闊歩するのが常だった。ムキムキの肩を見るのも今日までだ。
「意味わからんけどまあいっか。みんな飲み物ある?〈ユーヤ〉二十年楽しかったね。どうもありがとう! 乾杯」
また拍手。そのあいだも階段を上ってきた数人が加わる。カフェの壁には過去の公演やイベントのフライヤーが貼ってあり、これ自体も展示作品のようだ。誰かがスピーカーの音量をあげ、音楽が大きくなった。絵具でトレーナーを汚した絵描きがサンドイッチをもぐもぐしながらライブペインティングに戻っていく。白い壁には赤やグレーの線が泳いでいるだけで、この先どうなるのかさっぱりわからない。
七星の今後についてもこの線とおなじだ。それでも不安にならないくらいの進捗はある。魚居が紹介した求人に応募したら、書類選考と筆記試験つきの一次面接は通った。応募書類については魚居にアドバイスをもらったからともかくとして、一次面接をパスしたのは七星自身も驚いた。今は二次面接待ちだ。
ただ、もし採用が決まったら、生活をどうするかは考える必要があった。通勤するとなれば毎日東京を横断することになる。不可能ではないとはいえ、今のマンションを賃貸に出して部屋を借りる、という手もある。
もっともこれは七星の思いつきではない。伊吹がそういったのだ。八月に最後に会ってから、毎日欠かさず電話で話している。そして昨夜、離婚が成立したといった。
信じることのできる約束があれば、ゆく先が決まらなくても不思議と強くなれる。
四月からこれまでの出来事を両親に伝えたのは八月の最後の週である。七星と宮久保家との話し合いに決着がついたあとだった。伊吹と〈運命のつがい〉だということも、話し合いが他の名族――加賀美家と鷲尾崎家の者が見守る中で行われたことも、ちゃんと話した。
電話の向こうで未来はすこしのあいだ絶句していたが、やがて「がんばったわね」といった。
「私たちもその人に会わせてもらえる?」
「うん。そのうち……伊吹さんの準備ができたら、僕も会ってほしい」
伊吹は現在、都内のウィークリーマンション住まいだ。今の勤め先は十月に退職すると聞いている。もうすぐここにあらわれるはず。
階段の方をちらちらみていると、紙皿にどっさり唐揚げを乗せたマツがやってきて、七星の皿に勝手に取り分けた。
「ちゃんと食べるんだぞ、七星。大盤振る舞いだ」
「食べてますって――あ」
紙皿の唐揚げはもちろん、カフェの中は食べ物の匂いでいっぱいだ。それでも七星にはすぐにわかる。自分だけにわかる甘い香りが、まるで糸のように七星をめがけて飛んでくる。
〈ユーヤ〉の扉を開けると、ちょうど階段を下りてきた魚居祥子と目があった。
「伊吹さん、お久しぶり! 七星君は上よ」
祥子は笑顔で伊吹の横をすり抜け、カメラを片手にギャラリーに入っていく。伊吹は階段を一段とばしで上った。音楽と話し声のなかに、伊吹を惹きつけてやまない蜜の香りがただよう。そこに七星がいる。
「伊吹さん」
呼ばれる前から自分の頬がゆるんでいることに伊吹は気づかない。七星も伊吹の方にやってくる。はにかんだ微笑みをみると、なぜか体が軽くなった気がする。昨夜は眠る直前まで電話で話していた。七星はその続きのような口調でいった。
「もうすぐ三回目の乾杯なんです」
「三回目?」
「たぶん今日は二十回くらい乾杯がありますから。何を飲みますか?」
七星は紙コップをあげ、伊吹は反射的に答える。
「同じもので」
「オレンジジュースですけど」
「七星が持っているのがほしい」
衝動的に出た言葉を聞いて、七星の目がびっくりしたようにみひらく。伊吹はかまわず七星に手をのばす。紙コップを持つ手に指が触れる。
「……あげます」と七星がいった。
「ありがとう」
紙コップの中身はただのオレンジジュースなのに、口をつけるとほのかに蜜の香りがする。七星からただよう香りはまるでみえない糸のようだ。伊吹にからみつき、離れようとしない。伊吹はその糸につながれるまま、七星の肩に腕を回したいという衝動をこらえる。たしかに自由になったとはいえ、ここはひと目が多すぎる。
「やあ、三城さん」
奥の方から長身があらわれる。伊吹は無意識に姿勢を正して頭を下げたが、七星は嬉しそうに「加賀美さん! 一樹さんも」と呼びかけた。名族のアルファは車椅子に座ったオメガの青年と一緒だった。
「すみません、階段は大丈夫でした?」
「問題ないよ。みっちゃんに抱っこしてもらったから」
青年が答え、加賀美をみてニヤッとした。加賀美は平然とした顔で「一樹、飲み物は?」とたずねた。
「ビールがいいな」
「僕とってきますよ」と七星がいった。だが加賀美は手で彼を制し、ケータリングを並べたテーブルの方へ行った。
青年はあっけらかんとした口調で「俺のおかげでみっちゃんは齢をとれないのさ」という。
「そちらは?」
「三城伊吹と申します」
「三城……ひょっとしてみっちゃんがいう例の機構の案件って、あなたの? 多家良井紘一 設計の家がまるっと残ってるってやつ。あ、俺は加賀美一樹です」
伊吹は途惑いながらうなずいた。
「ええ、そうです。祖父母の住居でしたから」
「俺はウェブエンジニアですけど、勤務先は機構の案件も時々やってるんで。よろしく」
一樹は名刺を出したが、伊吹は「申し訳ないですが、今は持ち合わせていなくて」といった。
「かまいませんよ。ていうか、そうですよね。スカウトされてるでしょう?」
「はい、加賀美さんにはお話をいただいています。退職前なので公にできませんが……」
「楽しみですよ。面白いことやれそうじゃないですか」
七星は黙って話を聞いている。電話で彼にも話したから、何の話かはわかるはずだ。祖父母の家と土地は、加賀美家の肝いりで設置された文化財保存活用機構の助成対象に指定される見込みだった。
蓮と別れると決めたときは宮久保家にとられてもいいと思っていた。しかし加賀美家以外の名族からも思いがけない助力があって、ことは伊吹が予想していなかった方向へ進んだ。鷲尾崎家だけでなく、なぜか藤野谷家からも助太刀があり、祖父母の家は魅力的で保存状態もよい物件として、機構が管理団体となって地域の文化拠点になるよう整備を行うことになったのだ。
すべてはこれからはじまるが、正面が洋館、奥は和風建築という折衷様式を生かし、コミュニティスペースのほかにシェアアトリエやカフェを作って、将来的には維持管理の費用を賄えるようにするのが目標である。
さらに伊吹の次の職場も、この機構の一部門に内々定している。転職先ではこれまでとちがって各地をアクティブに動き回ることになりそうだが、では住居をどうするか。
伊吹はくるっと巻いた七星の髪をみつめる。七星も〈ユーヤ〉のあとの仕事が決まりかけている。
伊吹にとっては、七星さえいればどこで暮らそうがおなじことだった。唯一どうにもならなかったのは三城家――実家の家族との関係だが、自分のやれる最善のことはもう終わったという気がした。もつれて絡まったまま解けることなく、ぷつんと切れる糸もある。
「蘭さん、ひさしぶり」
食べ物を確保して戻ってきた加賀美の隣で一樹が手をあげて魚居を呼んだ。ライブペインティングの前で拍手が起き、みんながそっちへ動き始める。
さらに人が増えているが、伊吹は濃い蜜の香りにまた気を取られている。七星の手が肘にさしこまれ、すぐそばに体温を感じる。体の芯がかっと熱くなって、なだめていた欲望が頭をもたげる。
「七星」
伊吹はささやいた。
「このあと……」
「僕、いつでも帰れます」
七星が小さな声でいった。
「行く?」
こくっと七星がうなずく。ふたりは同時に歩きはじめている。階段を下りる途中で祥子とすれちがった。何かいいかけたが、ふたりのつないだ手をみたとたん、ただ笑顔をうかべて去っていく。
伊吹の車はコインパーキングに停めていた。七星は黙って助手席に座り、シートベルトを締めた。狭い空間が七星で満たされていく。やっとふたりになれた。そう思うだけで血がたぎり、自分を抑えるためにそっと息を吐く。
七星のマンションに着くまで、ふたりともひとことも話さなかった。言葉はなくとも混ざりあう香りが雄弁に語り、おたがいの声が届くような気がする。
マンションに着くと七星は先に車を降り、玄関へ行った。背中をみつめるうちに、春、ここへ来たときの記憶が狂おしいくらいよみがえり、伊吹は急いであとを追う。七星を追って中に入り、ドアを閉める。
ここには七星しかいない。七星の香りだけが伊吹を包む。俺のつがい、という言葉が頭の中でこだまする。
「いぶきさ…」
もう待てなかった。伊吹は七星の肩をつかみ、唇を重ねた。
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