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エピローグ 語らいの家
「お菓子の家みたいだ」
かつて書庫だった建物をみて、七星が最初に発したのはこの一言である。大きな切妻屋根にすっぽり覆われ、正面からは三角形にみえる外観のせいか。
伊吹にはいささか予想外の発想だった。たぶん子供のころ、この書庫を秘密基地に見立てて遊んでいたからだろう。
「改築したらここは事務所になる予定だ。母屋一階の洋間はカフェとギャラリーに、奥の座敷を宿泊可能なレンタルスペースにして、二階と三階をシェアアトリエに使う」
「すごく庭も広い。ちっちゃい子が走れるようなイベントもできるかも」
七星が嬉しそうにいった。十月十五日、日曜日。午前中は雨が降ったが、午後は晴れて、今は長袖をめくりたくなる陽気だ。
伊吹も七星もこの半月で生活が一変していた。伊吹は明日から、七星は来月から新しい仕事につく。相談の結果、七星の通勤に便利な町にふたりで家を借りて生活をはじめたのが二週間前。伊吹は出張の多い業務になると聞いているため、七星の利便を優先した。
新居にうつるにあたって七星はマンションを片づけて賃貸に出した。伊吹は身軽もいいところで、衣類や書籍など個人的なものを新居に運ぶだけだった。
改築された家を祖父はどう思うだろう。三城家の両親や弟がどう思うかはたずねようがない。蓮と離婚したことで、彼らとの関係はもう修復不可能だろう。一方、祖父の秘書だった湯浅儀一は文化財保存活用機構にまかせるという伊吹の決定を褒めてくれた。
「ここ、運用がはじまったらどんな名前になるのかな。建築家が有名な人なら、それにちなんだ名前かな? 多家良井さんでしたっけ。ありきたりだけど〈宝の家〉みたいな?」
七星がいった。実際のところ伊吹は機構と交渉するまで、建築家や由来について深く調べたことがなかった。伊吹にとってここは第一に祖父母の家だったからだ。
「〈多家良井紘一〉は実はふたりの人物なんだ。多良紘一と家井良一のふたりが〈多家良井紘一〉として活動していた。共同の住居兼事務所にするために設計したそうだ。ところが家井良一はオメガで、出産後亡くなってしまった。アルファの多良紘一はその後もずっと〈多家良井紘一〉としてキャリアを積んだが、ここには一度も住まなかったらしい。所有者は何回か変わって、最後が祖父だった」
「ふたりは夫婦だったんですか?」
「いや、ちがったらしい。仕事上のパートナーだったが……家井良一は別のアルファと結婚した」
七星が考えこむような顔つきになった。きっとこの話の裏の意味を想像しているにちがいないと伊吹は思った。はじめて耳にしたときは伊吹も色々勘ぐってしまったものだった。たとえば当時は、オメガが単独で建築事務所を構えるなど夢物語だったということや、アルファの多良とオメガの家井は本当に単なる「仕事上のパートナー」だったのかということ。それに共同事務所を建てたにもかかわらず、家井が突然他のアルファと結婚した理由などを。
しかし七星が考えていたのはすこしちがうことのようだ。
「たしかにそんな由来なら〈宝の家〉はよくないですね。それなら……タカライを並べ替えて〈カタライの家〉とか?」
伊吹はすこし意表をつかれ、しげしげと七星の顔をみつめてしまった。七星はきょとんとした目つきになって「やっぱりこれもありふれてるかも」とつぶやいている。
カタライ――語らいの家。そうなれば祖父も喜ぶかもしれない。
庭の手入れや点検管理を怠らなくても、長いあいだ人の住まない家はどこか荒れて、空虚な雰囲気を漂わせるものだ。この家がそんなふうになることが伊吹はずっと嫌だった。宮久保伊吹として過ごした三年間はあまり訪れることもできなかったから、なおさらだ。
しかしどうやらこの家は荒廃する運命を免れたらしい。母屋に残っているのは状態のいい調度だけで、部屋はどこもがらんとしているが、荒れた気配や空虚さはない。それどころか、七星と座敷を歩いていると、ラジオを聴きながら豆をむいている祖母や、碁盤の前で石を握って考えこんでいる祖父の姿が見えるような気がする。
自分と七星もいつか、祖父母のようになれるといい。
ふと〈ユーヤ〉のことを思い出した。あのスペースはもうなくなり、建物ごと取り壊されるはずだ。七夕の短冊に伊吹は「七星が幸せでいられますように」と書いた。あの頃の伊吹はすこし先の未来がこんな風になるなど、思ってもみなかったのだ。
七星が廊下で立ち止まった。興奮した目つきで「このアーチの窓、すごくいい雰囲気だ。窓もすごい」と口走る。すっかりこの家に惚れこんでしまったらしい。伊吹は思わずその肩に手をかけた。
「伊吹さん?」
伊吹は不思議そうに振り向いた七星のひたいに軽くキスをした。七星の目が丸くなった。
「ど、どうしていきなり……」
「すまない。忘れられていたらどうしようかと」
「そんなことあるわけないでしょう?」
七星の体からぱっと香りがたつ。蜜を思わせる甘い香りだ。
「伊吹さんは存在感がありすぎるのに」
「そうかな。以前はアルファのくせに目立たないと、よく――」
伊吹は途中で口を閉ざした。何かあるたびに伊吹にそういったのは春日武流だが、それはもう伊吹が気にすることではない。
「そんなことないです。伊吹さんがいると僕はすぐ……」七星もなぜか急に言葉を切った。
「すぐ?」
「何でもないです」
伊吹は七星の顔をのぞきこむ。恥ずかしいことでもいったように赤くなっている。
「俺はすぐ七星にキスしたくなる」
「伊吹さん、その……」
「何?」
「俺っていうの、反則です。家ならいいけど、外じゃ……」
「どうして?」
七星はいやいやをするように首をふったが、蜜の香りがまた濃くなった。求められているのを感じたとたん、体の奥でつがいの本能がうごめきはじめる。
「キスだけ……」
七星がつぶやいた。伊吹はそっと体をかがめる。七星の唇も蜜の味がする。伊吹を捕らえて離さない甘さだ。
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