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後日談 モザイクの街で
ふつふつ煮立っているシチューの鍋をかきまぜたとき、玄関で通知音が鳴った。七星は火をとめて鍋にふたをすると、いそいそとキッチンから廊下に出た。
玄関につくと同時にドアがあく。伊吹の顔をみたとたん、自分の頬がゆるむのがわかる。
「早かったね」
「金曜だからね。早く帰りたかった」
十月もあと数日で終わる。伊吹と暮らしはじめて一か月もたたないが、習慣というのは思いのほかあっさりできあがるものらしい。平日の伊吹の帰宅は七星よりたいてい遅く、玄関まで出迎えるのがすっかりルーティンになってしまった。
住んでいるのは五階建てのマンションの、ルーフバルコニーに囲まれた塔屋の部屋である。周囲は戸建てが立ち並ぶ住宅街で、エレベーターが五階に止まると玄関で通知音が鳴る。専用キーがなければエレベーターは止まらず、周囲の建物からの視線もなく安全だという理由でここを借りた。日当たりも風通しもよく、ずっと一階住みだった七星には新鮮な環境である。
「いい匂いがする」
上着を脱ぎながら伊吹がいった。
「シチューの匂いかな? ちょうどできたところ」
「ああ、おいしそうだ」
七星にとって新鮮なことはほかにもいろいろある。たとえば、仕事から帰ってきて部屋着にきがえた伊吹が見られること。ワイシャツにネクタイをぴしりと締めたスタイルなら〈ユーヤ〉で何度も見たが、Tシャツにスポーツジャージを着た伊吹を前にしたときは、自分でも恥ずかしくなるくらい妙な興奮を覚えてしまった。
そんなラフなスタイルの伊吹がキッチンにやってきて、七星のすぐうしろにくっついてくるのも新鮮である。いや、それ以上にドキドキして、困ってしまうこともある。
「ごはんがないのに気づかなくて、さっき炊きはじめたからまだ……」
夕食について話しているだけなのに、伊吹の腕が七星の胸にまわり、うなじに息がかかると、体が勝手に疼いてしまう。首筋から背中にかけてふわりと甘い感覚が押し寄せ、七星はもじもじと腰を動かすが、伊吹は気づかない様子で聞く。
「メニューは何? シチューと……」
「冷蔵庫にサラダも」
「米が炊けるまで待つだけ?」
「うん」
「リビングで待とう」
唇で耳をなぞるようにしてささやかれては、七星にはとても抵抗できない。ぴったりくっついたままリビングへ連れていかれ、テレビの前の柔らかいソファに並んで座る。座るというか、伊吹に抱きすくめられたままソファに埋もれる感じだ。
「伊吹さん、ごはん、早炊きにしたからじきに……」
「その前に七星を補充する」
「補充って……もう」
「ちょっとだけだから」
ささやく低い声も、髪をさぐる指の動きも心地よく、七星はつい目を閉じる。伊吹は七星を抱きしめたまま、首筋に鼻を押しつけてくる。どうも、大型犬に甘えられているような気がする。いや、犬ではなく猫科の豹や虎だろうか、とにかく大きな動物だ。部屋着スタイルの伊吹と同じく、こうして甘えてくる伊吹も七星には新鮮だ。
新鮮というなら七星の方も、帰宅する人を毎日玄関に出迎えるようなことはこれまで一度もしたことがなかった。これはこれで犬みたいな行動かもしれない。
リビングの窓のカーテンは開けっ放しだが、周囲は二階建ての住宅ばかり。遠くからかすかに響くのは国道を走る車の音と、並行する線路を通っていく電車の音である。
十月からふたりで暮らしはじめたここは、都心まで急行電車で五十分かかる郊外の町だ。伊吹の勤務先は都心の真ん中だが、七星の利便を考えてここに住むことになった。国道沿いには家電やファミレスのチェーン店がならび、そのあいだには畑も点在している。駅の南側は工場跡地に建てられた巨大なショッピングモールが占拠し、北側は小さなロータリーの先に消防署や郵便局や市庁舎があって、七星の勤務先はその近くにある。老朽化した文化会館を建て直した複合施設だが、一般公開は来年から。
この市は市庁舎やマンホールの蓋など、あちこちにモザイクを飾っている。七星が就職した新しい施設の装飾にも古い文化会館のモザイクが使われているが、なぜモザイクなのか、七星は上司や同僚にたずねそこねている。仕事には多少慣れてきたが、駅前の通りのどこに何があるのかも、いまだによくわからない。
以前住んでいた町からは電車で二時間以上かかる距離になった。引っ越す前に彰の墓参りに行き、彰の父の晶久にマンションを賃貸に出したことを話した。
アルファの晶久は顔をあわせた瞬間に、七星につがいができたことを察したらしい。くわしくたずねはしなかったが、別れるとき、新しい人ができてよかったといわれた。
七星はまだ照井姓のままである。旧姓の杉野に戻すか、伊吹と結婚して三城姓にするのか、そういったことを決めるのもまだこれからだ。
伊吹とふたりで暮らしはじめてから、毎日のようにたくさん話をした。これまで話せなかったことも、これからのことも。でも今はまだこれ以上の決定を急がなくてもいい。伊吹もそう考えているのはわかっている。
キッチンの方で炊飯器がメロディを奏でる。
「伊吹さん、ごはん炊けた……」
七星はぽんぽんと伊吹の背中をたたく。生返事がかえってきた。
「うん……」
伊吹は七星を「補充する」といったが、七星も伊吹の唇に首筋をくすぐられるたび、体の奥に甘いしずくが滴っていくような気がする。一滴ずつたまって、もしあふれてしまったら、食事どころではなくなってしまうのに。そう思っても、伊吹の香りに包まれているとなかなかそんなことはいえない。かわりに腋のしたをくすぐると、伊吹は小さく体を震わせて笑い出し、やっと七星を離した。
食卓に皿をならべ、テレビをつけると定時のニュースの最中だった。伊吹の新しい職場、文化財保存活用機構が特集で取り上げられている。
『文化的価値の高い建築物についてですね、壊して建て替える以外の選択肢を提案するとか、放置されている建物を再生することで街並みや地域を活性化するとか、そのために行政との中継ぎをしたり、事業化の支援をするのが当機構の主要な役割です』
聞き覚えのある声が流れてきたと思ったら、テレビに映っているのは加賀美だった。
『文化財を守れないのは大きな損失だという認識を広げたいと思っています。建築は町の顔になるもので、地域のアイデンティティをつくるものでもある。単に保存すればいいというだけでなく、その土地で生きたものになるように……』
「テレビでみると俳優みたいだ。かっこいい……」
ぼそっとつぶやいたら、向かいに座った伊吹がくすっと笑った。
「加賀美理事は広報が得意なんだ。隠れファンがたくさんいる」
「やっぱり」
「まさか七星もファンのひとり?」
「え、僕はそんなのじゃなくて、ただかっこいいなって……」
「あまり褒めると妬いてしまうから、ほどほどにしてほしいな」
「伊吹さん!」
ふふっと伊吹が笑う。邪気のないからかいがすこしだけ混じったほほえみ。〈ユーヤ〉で知りあった頃も伊吹の笑顔は時々見たが、いま思い出してみるとつねにどこかに影が落ちているようなほほえみだった。いまの伊吹はずっと晴れやかだ。長いあいだ背負っていた重荷をおろしたような、解放された人の笑顔をうかべている。
食事をおえて七星が皿を重ねると、伊吹がキッチンに下げにいく。七星が皿を洗いはじめると伊吹はすぐそばに立って、手を貸したいのか邪魔をしたいのか、とにかく七星にくっつこうとする。そういうところも大きな動物がじゃれつくのにすこし似ている。でも本人は無自覚らしい。
「何かおかしい?」
大型動物みたいだから、などと答えるのはあんまりかと思い、七星はあわてて真顔に戻る。すると伊吹は七星の腰をくすぐりはじめ、七星は声をあげて笑ってしまう。
「もう、だめ!」
「何がだめ?」
「くすぐるのが……」
「じゃあこれは?」
視界が影に覆われ、伊吹の唇が軽く重なってくる。キスはすぐに深くなり、舌が触れたとたん、七星の背筋が甘くしびれた。
「伊吹さん、だめ……」
言葉とは裏腹に七星の手は伊吹のTシャツをぎゅっとつかんでいる。伊吹は七星の顎をつかみ、唇で目じりから頬、耳をたどった。
「だめだって、こんな、立ったままじゃ……」
「わかった」
低くささやかれたとたん、ゆっくりと七星の中にたまりつづけていた甘いしずくが一気にあふれた。体の奥がかっと熱くなり、触れられたところすべてからヒートの香りがあふれだす。
伊吹の息が熱く、速くなり、おたがいの呼吸と心臓の音が聞こえるような気がした。もつれるようにしてキッチンからリビングへ、そしてソファに倒れこむ。濃密な香りがカーテンのようにふたりを包んでいる。窓の外とおくで、電車の走る音がかすかに響いた。
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