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第1話

切れた相手の携帯番号なんて、その帰り道で速攻削除が当たり前だったのに。 あれから半年も経つ今になっても消せないただひとつの例外。 「……ったく」 なぜか不意にそいつのことを思い出して呼び出してしまった携帯番号。 でもかける勇気は出ないまま切ろうとしたその時。 突然の着信に驚いた。 画面はそのまま…そいつだ。 「なん…で……?」 今頃、とかそういうんじゃなくて、あいつも俺と同じで切れた相手の番号は速攻で削除するって確か言っていたのに。どうして俺の番号を……? 震える手を何とか鎮めて、深呼吸のあとでゆっくりと送話ボタンを押す。 『……俺、覚えてるか?』 澄んだ声が、俺の記憶の中から半年前の情景を思い出させる。 溺れていったのは俺のほうだった。 連絡するのはいつも俺。あいつは断ることはしなかったけれど、自分から連絡を入れてくることもなかった。 『……見合いを勧められたんだ』 その話は本当だったけれど、それを情事のあとのベッドであいつに切り出したのは、あいつの反応を見たかったから。少しでも俺に対してなにか思っていてくれればいいのにって。 でもあいつは…… 『ふーん。まあ元々遊びだって割り切った付き合いだったんだ。終らせるには恰好の言い訳だな』 ベッドの中で燻らせていたタバコを揉み消して、簡単にそう言っただけ。 『じゃな。おまえと付き合ってそれなりに楽しかったよ』 それきり俺のほうを見ることもなく身支度を整えて、ホテルの部屋をあとにした。 本当にそれっきり。 何度夜の街を渡り歩いても、あいつと初めて会った店を訪れても、あいつはいなかった。 この世界から消え失せたのかって疑いたくなるくらい、キレイさっぱりと。 『おい、聞こえてるか? それとも俺のことはもう忘れたか?』 訝しげな声にハッと意識を引き寄せ、携帯を握りなおす。 「あ、悪い…突然だったんで驚いただけだよ。久しぶりだな。ちゃんと覚えてるぜ」 『そりゃよかった。実はおまえに頼みたいことがあるんだ』 「俺に? 珍しい…おまえがか?」 『ああ。おまえ引越し先のマンション探してるんだってな。格安物件があるんだがどうだ? まあちょっと条件付だけど』 「……なんでおまえがそんな話知ってるんだ?」 そう、今住んでいるこのマンションが来月で契約切れになるのを機に、いっそ分譲でも買おうかと思っているのだ。でもそんなこと誰にも話した覚えなんて…… 『おまえの元彼に聞いた。3日前に別れた奴な、俺の大学時代の後輩なんだよ』 「…………」 『一緒に住まないかみたいなこと仄めかしたって? 重いから別れてやったって言ってたぜ』 少し笑みを含んだ声で告げられるその理由。 ああ…そういえば酔っ払ってそんなこと言ったかもな。もちろん本気のわけじゃなかったけれど。 どうもこいつと別れてから調子が良くない。 それまでは俺がリードしてフルのも俺のほうからだったのに。最近はずっと俺がみっともなくフラレテばかりだ。 『でもなんで急にマンションなんて買う気になったんだよ』 「別に…ちょっと環境を変えてみようかと思っただけさ。おまえは、あれからどうなんだ?」 ほんの少しだけ、期待を込めて聞いてみる。 『別に変わりはないな。ああでも…しいていうなら年下のワン公に懐かれてるよ』 そう言って笑う声が、どこか甘さを含む。 「恋人、かよ?」 胸のどこかがズキンと痛んだ。 『まあ、そんなもんだ。で、さっきの話に戻るけど、その格安物件ってのが俺が今住んでるマンションなんだ』 「え……? っておまえ、引っ越すのか?」 まさか条件付ってのはこいつとその恋人が同居ってわけじゃないだろうな。そんなんだったらお断りだ。 『ああ。俺一人だったら売りに出しときゃいいんだけど、兄貴がいるんだよ』 「……兄さん?」 初耳だ。こいつに一緒に暮らしてる兄弟がいたなんて。 『条件ってのは、兄貴込みでマンションを買ってほしいってことなんだ。っていうより、兄貴の面倒を見てやってほしいってことかな』 「面倒って…おまえより年上ならいい年じゃねぇ。自分のことくらい出来るんじゃねぇのか? それともなんかあるって……」 『……寂しがりやなんだよ、兄貴。普段は別にどうってことないし、家事全般は完璧にこなしてくれる。ただ時々、兄貴の望んだときにそばにいてやってほしいだけだ』 「…………」 『おまえがダメなら他当たるよ。悪かったな、突然』 「あ、ちょ…ちょっと待てよ」 あっさりと切られそうになって慌てて引き止める。 「すぐに返事しなきゃいけないほど焦ってるのか?」 『そうだな、あんまり時間はない』 「……明日まで待ってくれないか。俺も少し考えたい」 数秒の沈黙が電話の向こうで落ちる。その途端に後悔する俺は、どうやらこいつに未練たらたらのようだ。こいつはもう、別の男のものなのに…… 『わかった。明日また電話するよ』 「なあ……」 またも切られそうな気配に、慌てて言葉を繋いで引き止める。 「会えないか? おまえに直接会って、返事をしたい」 『…………』 「頼む。1時間…30分でもいいから会いたいんだ」 別れた相手にこんなに必死になるなんて滑稽だ。会ったところでこいつが俺の下へ戻ってくるわけじゃないのに。 『……分かった。あの店でいいか?』 どこか諦めたような声に少しだけ胸が痛んだものの、会いたい気持ちのほうが勝った。 「ああ。じゃあ8時に待ってる」 それきりあいつは何も言わず、黙って電話は切れた。 「ったく未練たらしいぜ、俺も……」 思わず自嘲気味に呟いて、無機質な通信音だけになった携帯を切った。

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