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第2話
あいつと初めて会った店。
品のいいジャズが店内に流れ、薄暗い照明の下ではカップルや連れのいないサラリーマンらしい男、少し派手めの女が思い思いの時を過ごしていた。
腕時計をのぞけば、約束の時間までまだ30分もある。
自嘲気味なため息をつきながらカウンターのスツールに腰を下ろせば、なじみのバーテンがいつもの酒を差し出してくれた。
「ありがとう」
「なんだか久しぶりですね。別の店に行ってたんですか?」
「いや、このところ仕事が忙しかったんだ。別にこの店を忘れてたわけじゃないぜ」
そう答えれば、そのバーテンは小さく笑って軽く頭を下げて別の客のほうへと身を翻した。
「……凛」
思い出すのは遠いあの日、自棄酒を煽るあいつに興味を惹かれて声をかけた時のこと。
乱暴な飲み方にさっきのバーテンが困っていたのを助けてやろうというのも半分はあった。
『穏やかじゃないな、その飲み方。体壊すぜ。見たとこ強いってわけでもなさそうだし』
『うるさいな、放っておけよ。俺の体だし俺の金で飲むんだからあんたに関係ないだろう。今夜はとことん飲みたいんだよ』
そう言って睨みつけてくる目元が泣き腫らしたように赤い。
もしかして失恋でもしたのか? こういう俺の勘は結構当たることが多いんだ。
『んじゃ、俺も仲間に入れてもらえるかな。俺も今夜は飲みたい気分なんだ』
そして俺は、あいつに気付かれないようバーテンにアルコール抜きの甘いジュースを渡すよう囁いた。
『……なんだよ、あんたも自棄酒?』
少し興味を持ったようにあいつが話しかけてくるのに、俺は曖昧に頷く。
『まあ、そんなところだ。実は今さっき失恋してきた』
『へぇ……あんたみたいないい男、フル女がいるんだ』
『本気になってくれない男は嫌だそうだ』
曖昧に頷きながらそう返事をする。
実際のところフッタのは俺で、相手は女じゃない。でもそれを行きずりの相手に言ったところで意味もない。
『……俺は、本気になった男は嫌だってフラレタのにな……』
新しいグラスを手にして、少し寂しげに呟く横顔にドキンとした。
『ひどい言い草だと思わないか? 俺を本気にさせるようにけしかけといて、いざそうなったらあれは冗談だって…俺の気持ちはどうなるってんだよ……』
そう言って手にしていたグラスを一気に煽る。どうやらジュースだということには気付いていないようだ。
それからもポツポツと愚痴をこぼしながら、あいつは結局5杯のジュースを飲み干した。
『……あんたが来てからの酒、全部ジュースだろ。あんた持ちな』
『なんだ、気付いてたのか』
『当たり前だ。酒の味くらいちゃんと分かってる』
『あんまり飲むから気付いてないかと思った』
『気付かないフリしてやったんだよ。でもまあ、あんたに愚痴ったらスッキリした。サンキュ』
微かな笑顔にまたドキンと胸が高鳴る。
スツールを立ち上がるのを思わず引きとめてしまった自分にハッとして、慌ててその手を離す。
『……縁があったらまた会えるんじゃないか? ここで』
思わせぶりな言葉と笑みを残して、あいつは店を出て行った。
それからの俺は、自分でも滑稽なくらいあいつのことばかり考えてた。
縁があればここで会える。そんなあいつの言葉に一縷の望みをかけて、毎日のように入り浸ったてみたり。
「凛……」
もう一度あいつの名前を呟いた時、ふと隣に誰かが腰掛けるのを視線の端に止めた。
「早いな。まだ約束の時間まであるだろ?」
懐かしい笑顔に、やっぱり胸がときめく。
「仕事が早く終ったんだ」
そんな言い訳をしながら、ごまかすように慌ててグラスを口元へと運ぶ。
「ま、俺もおまえのこと言えないけど」
こいつはそう言って小さく笑うと、バーテンにいつもの酒と注文していた。
「……よく来るのか? ここ」
「ああ、週に何回かな。っていってもそんな頻繁に来始めたのはまだ最近だけど」
「…………」
その理由が聞きたいのに聞けない俺は、またグラスを口元へと運ぶ。と、この店のホストらしい黒いギャルソンエプロンの男がこいつに近づいてきた。
「あれ? 今夜は来ないと思ってたのに」
人懐っこい笑みを浮かべた大柄なその男は、こいつに嬉しそうな笑みを向けてそう話しかける。その瞬間に分かった。こいつが昨日の電話で言っていた「年下のワン公」だと。
「大事な商談が入ったんだ。おまえはこんなところでサボってないでちゃんと働けよ」
そう言ってこいつが向ける笑みは穏やかで、もう絶対に俺が入り込む隙間なんてないくらいの絆を感じる。
「分かってるよ。あなたの姿が見えたからちょっと寄り道しただけ。ねえ、商談長引くようなら待っててよ。一緒に帰ろう」
「分かった。さあさっさと行かないと客が待ちくたびれてるぞ」
「はいはい。じゃあ約束だよ」
嬉しそうな笑みを浮かべてフロアへと戻っていく彼の背を、こいつは優しい眼差しで見送ったあと、俺のほうへとゆっくり視線を向けた。
「すまない。脱線したな」
「……若いな。年下っていくつだよ?」
「あいつか? 大学4年生だ。苦学生だから割のいい夜のバイトで稼いでるらしい」
「そうか」
冷たくそっけなく答えると、こいつはそれきり口を噤む。なんだか急に大人気ない嫉妬が恥ずかしくなって慌ててこいつを見れば、特に気にしたふうもなくグラスを口に運んでいた。
「で、本題なんだが……ちゃんと考えてくれたんだろうな?」
「あ、ああ……」
一応、考えはした。こいつに会える喜びに埋もれながら、もしかして俺がそのマンションを買い取ったらまた会えるかもしれない、もしかしたらもう一度やり直せるかもしれないなんて儚い希望を抱きながら。
でも今のこいつとあの彼を見て、それが俺の都合のいい幻想でしかないと思い知って……途端にどうしようか悩みだすってのは、いかに俺が不純な動機でこの話をOKしようとしてたかってことだよな。
「手の掛かる兄貴じゃないし、余計な詮索も干渉もしない。昨日の電話でも言ったが家事全般は完璧だ。ただ…月に1度か2度、話し相手になってやって欲しいだけなんだ」
「……病気かなにかなのか? おまえの兄さん」
「そうとも違う。ただ兄貴にとってあのマンションは何にも変えがたい宝物みたいなモンなんだよ。ちょっと子供っぽいところもあって、思い出に浸っちまうっていうか……。一人で残しておいてなにかあったら心配なんだ」
「おまえはなんで、引っ越すんだ?」
さっきの彼と一緒に住むためだとか言いやがったらこの話を蹴ってやろうと思いながら聞くと、こいつは小さくため息をついた。
「転勤だよ。サラリーマンの宿命さ。兄貴のことがあるからずっと断ってたんだが、さすがに今回は無理だった」
どこか寂しそうに答えるこいつに、俺は手の中で燻らせていたグラスの中身を一気に飲み干してから言った。
「おまえの兄さんは了解済みなのか? 俺のこと。もしそうなら、いいぜ。俺が買ってやるよ」
「……サンキュ」
ホッとしたように呟いて、こいつもまたグラスの中身を一気に飲み干した。
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