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第3話
こいつの住んでいたマンションに案内してもらうことになったのは、あの夜から3日後の土曜日の午後。
次の週にはもうこいつは転勤先のマンションへ移ることになっていたからだ。
「悪いな、引越し準備で散らかってるんだが……」
玄関のチャイムを鳴らすとすぐにドアは開き、こいつはどこか申し訳なさそうにそう言った。
「いいさ、別に。大体の構造さえわかればいいんだ」
そう答えて玄関から中へと上がりこむ。広い廊下を抜けた先に広がるリビング。高層階の部屋だけあって眺めは抜群だ。
「兄貴はちょっと今日はどうしても抜けられない用事があって出かけてるんだ。おまえによろしくって言ってた」
「……そうか。これから同居人になるんだから挨拶くらいしときたかったけど……」
ちょっと残念に思ってそう言ったら、こいつはまたどこかホッとしたような笑みを浮かべながら視線を落とす。
「こちらがバスルームで、ここが俺が使ってた部屋。兄貴の部屋はあちら」
4LDKの居室を一通り案内してもらってもう一度リビングへ戻ると、こいつはキッチンへと立っていってコーヒーを淹れてくれた。
「……引越しはいつ頃になる?」
出来れば兄さんを一人にしたくないのだと言っていたのを思い出し、俺はこいつの淹れてくれたコーヒーを飲みながらどうしようかと考える。
気軽な一人暮らしの身、引越しの荷物だってそんなにたくさんあるわけじゃない。
「勝手ばかり言って悪いとは思ってる」
沈黙を続ける俺に、こいつは少し焦ったようにそう言った。
「おまえは、いつなんだ?」
俺がそう問い返せば、こいつは手にしていたカップをテーブルに返しながら答える。
「3日後だ」
「急だな?」
驚いて聞き返せば、こいつはただ小さく頷いた。
「言っただろ? 今回は断りきれなかったって。本当ならすぐにって言われたのをここまで引き伸ばしたんだ。これ以上は無理さ」
「……そうだな」
俺だって会社に縛られるサラリーマンの身。こいつの言っていることは十分すぎるほど理解できる。
「とりあえず契約は来月まで残ってるから、大きな荷物はゆっくり運ぶことにして……そうだな、明日にでももう一度来るよ。明日ならおまえの兄さんもいるだろ?」
「ああ。悪いな、二度手間かけたみたいで……」
「そんなことおまえが気にしなくていいよ。今日がいいって言ったのは俺なんだし。あ、でも…俺達だけでそんなこと勝手に決めていいのか? おまえの兄さんの意見も聞いてみないと……」
そんな俺に、こいつは小さく首を振った。
「兄貴は大丈夫だ。人見知りするような性格でもないし、誰とでも仲良くやっていける」
「……そうか」
「俺の使ってた部屋でもいいか? 嫌なら物置にしてた部屋片付けるから」
それに今度は俺が首を振る。
「俺は構わないよ。でもおまえさ…本当にいいのか? マンション、俺に売っちまって?」
そう聞けば、こいつは迷うことなく頷いてもう一度カップを口に運んだ。
「帰れるのは早くても5年先。あいつ、今年で卒業なんだよ…それで、卒業したら一緒に暮らすことになってるんだ。もしこっちに戻ることになっても、その時はあいつと一緒に部屋を探すさ」
「……そう、なんだ……」
もう俺の入り込む隙間はない。
そんなの、この間の夜に思い知ったはずなのに……こんなにも諦めが悪かったらしい俺は、今この瞬間まで胸のどこかで淡い期待なんて奴を無意識に抱いていたらしいことに苦笑した。
「俺さ……」
ポツリとこいつが呟く。
「俺…本気でおまえが好きだった……」
思いもかけないこいつの告白に驚いて、俺はじっと俯くこいつの横顔を凝視する。
「え……?」
「おまえが俺にさ、見合い勧められたって話したとき……俺、それ以上を聞いたらその席に乗り込んでぶち壊しちまいそうな自分を感じてさ、それをおまえに気付かれないように精一杯強がってたんだぜ。縋り付いて泣いて、重いって思われるの嫌だったし。これ以上本気になる前に別れようって、そう思った」
「…………」
「このまま死んじまうんじゃないかってくらい泣いたな。会社も有給使い果たすまで休んでさ…バカみたいだけど、動けなかった。俺の何がいけなかったんだろうって考えて、考えて……」
「……だっておまえ、何も言わなかっただろ……? 連絡するのはいつも俺で、会いたいって思うのはいつも俺ばっかりで…俺のほうこそ、おまえの気を引きたくてあんなこと言ったのに、おまえ、あっさりと頷いて別れようって言うから……」
声が震えてしまう。
「俺をフッタ男がさ、別れるときに言ったんだ。連絡してくるのも、会いたいって言うのも、本当はすっげーウザかったって。だから俺、自分からは何も言えなかった。あいつと同じこと、おまえに言われたくなかったから」
胸に渦巻くのは激しい後悔の嵐。もしかして俺があんなふうにこいつの気持ちを確かめるようなことをしなかったら、今頃は……
「その場で携帯の番号もアドレスも消して、おまえとの思い出も全部捨てた。あの店にも行かなかったし、夜の街を歩くこともやめた。やっと少しだけ心の整理みたいなのがついて、久しぶりにあの店に行ったらあいつが新入りのアルバイトで来てて……。なんか、あいつのそばって居心地がよかったんだ。おまえと一緒にいたときとも、俺をフッタ男と一緒にいたときとも違う。いつでも自然体の俺でいられた。一目惚れしたんだって照れくさそうに言われて、なんか…その言葉をもう一回信じてみようって気になってる自分に驚いて……」
そこまでを一気に語ったこいつに、俺はただため息をつくしかない。
「……俺も、おまえが好きだったよ……。いつも不安だった。俺に会いたいって言ってくれないおまえに、もしかして俺の誘いは迷惑じゃないか、とかな。白状すると、今回の話…俺がOKしたら、もう一度おまえとやり直せるんじゃないかってそんな醜い打算もあったんだ。ああ、安心しろよ。だからって白紙に戻したりはしないから」
一瞬、不安げに揺れたこいつの表情に、俺は安心させるように笑ってそう言った。
「完敗だ、年下のワン公に。……幸せにしてもらえよ」
それにこいつはどこか照れくさそうな笑みを浮かべる。俺と付き合ってた頃には一度も見たことのない、キレイな笑顔。それを浮かべさせることのできるあいつに、嫉妬しないって言えば嘘になるけど……
「俺もそろそろ一歩を踏み出さないとな。いつまでもおまえの後を追いかけてても仕方ないし」
「……おまえならいくらでもいるだろ」
それにゆっくりと首を振る。
「俺が本気になれる相手……おまえと同じくらい好きになれる相手っての、ゆっくりと探すよ。俺さ…多分、本気になったのっておまえが初めてだから」
「……いい恋しろよ」
静かにそう言うこいつに、黙って頷いた。
それきり落ちる沈黙は決して不快じゃなくて。
すっかり冷め切ったコーヒーをいつまでも飲みながら、俺達は陽が傾くまでそうしてその場に座り込んでいた。
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