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第4話

俺がこの部屋へとりあえず身の回りの荷物と一緒に引っ越した翌日、予定が繰り上がったといってあいつは転勤先へと旅立った。 あいつの兄さんは本当に人当たりがよくて、穏やかな物腰と丁寧な言葉遣い、それに仕草のひとつひとつまでが洗練されているように感じられた。 会社組織というものに適応しないのだとどこか寂しげに笑った彼は、週に5日間高級ホテルのラウンジでバーテンのアルバイトをしていると言った。なるほど、そのせいかもしれない。 サラリーマンの俺とは基本的に生活時間帯も違うため、共同生活に必要と思われるルールをいくつか作り、互いにプライベートは干渉しないということでこの同居生活はスタートしたのだ。 ここへ引っ越して変わったことがいくつかある。 まずは朝飯。今までなら喫茶店でコーヒーを流し込んで終わりにするか、それともコンビニのパンをかじる程度だったのに。 俺の起きる時間の少し前に帰ってくる彼は、必ず俺の朝飯の準備をしてくれた。 お互いの予定を書き込むホワイトボードに俺が何も書かないときは必ずだ。 最初はなんだかくすぐったくて、でも嬉しくて、一人の食事もいつものことだったから苦にならなかった。でもそれが何度も続くと、贅沢にもなんだか物足りなさを感じるようになって…… ある朝、少しだけ早く起きた俺は、朝飯をダイニングテーブルに並べて部屋に戻ろうとする彼に、一緒に食べようと持ちかけてみた。 「……ごめんなさい。朝は食欲ないんです……」 申し訳なさそうにそう答える彼にそれ以上は無理強いできず、黙って頷いて椅子に腰掛けると、彼は小さく会釈して部屋へと戻って行った。 あんなに美味しかった食事が突然色褪せてしまったように感じられて、でも残すことはできなくて、機械的に口へと運んでは飲み込むことを繰り返す。 空になった食器をシンクへと運んで水につけ、ため息。 一緒に暮らし始めてそろそろ2ヶ月。だが考えてみれば彼とまともに顔を合わせたことはないに等しい。 あいつは、兄貴は寂しがり屋だと言った。時々、そばにいてやって欲しいとも言った。 でも彼は一度も俺に甘えかかってきたことはないし、俺が休みでリビングにいるときは、そそくさと自分の部屋へと戻って行ってしまう。 でもいつも作ってくれる食事はどれも手が込んでいて、おいしくて、嫌われているとは思えない。 もっと近づきたいと思っている自分自身に驚いた。 彼のことをもっと知りたい、そばにいて話をしたい。儚げでとても綺麗な笑顔を見たい…… 「な、なんだよ…それ……」 そんなことを考えてしまい、慌ててそれを打ち消してため息。 同じ部屋で暮らしているのに、とても遠い存在。別に俺がここにいてもいなくても同じなんじゃないかとため息が多くなった頃。 微かに部屋のドアをノックする音。 「どうぞ」 ここには2人きりしかいないんだから、そんなことをする相手は彼だけだ。そんな当たり前のことになんだか緊張しながらそれでも何とか平静を装って答えると、ゆっくりと開いたドアの向こうから彼がどこかためらいを見せながら顔を出す。 「あの…今、ちょっといいですか?」 「あ、はい」 今度のプレゼンで使う資料を作っていた俺は、パソコンデスクの周りに散らかる紙の束を慌ててかき集めて脇にどけ、未だドアの前に立ったままの彼へと向き直ってどうぞと促す。 と、彼は遠慮がちに俺の部屋の中に足を踏み入れ、ベッドの端にそっと腰掛けた。 「……突然すみません。あの…凛から、聞いてますか?」 視線を床に落としたまま、膝の上で小刻みに震える拳に、俺はあいつが言っていたのはこのことだったのだろうかと思う。 「ええ、聞いてます。だから安心してください」 出来るだけ優しくそう言うと、彼は一瞬だけ顔を上げてホッとしたような笑みを浮かべ、また床へと視線を落としてしまう。 沈黙のまま、どれくらいの間そんな時間が続いたんだろうか。 彼は大きく深呼吸をすると、ゆっくりと掛けていたベッドから立ち上がって顔を上げた。 「……ありがとうございました。ごめんなさい、お仕事の邪魔しちゃって……」 「え、いや……」 別に俺の手が止まっていたのは彼のせいじゃない。俺が勝手に彼を見つめ続けていただけで…… 「ちょうど休憩にしようと思ってたんです。あの…もしよかったら、コーヒー…淹れてもらえませんか?」 緊張が解けたからなのか、なんだか喉が渇いてそう言ったら、彼は優しい笑みを浮かべて頷き、それから小さく頭を下げて俺の部屋を出て行った。 一呼吸置いてから俺も部屋を出てリビングへと向かう。ドアを開けるとキッチンからコーヒーのいい香りが漂ってきて、俺がソファに腰掛けるのと同時くらいに彼がカップを持って来てくれた。 「ありがとうございます」 差し出されるカップを受け取ると、彼は向かいに腰掛けながら自分のカップを包み込むようにして口をつける。俺はそんな彼をやっぱりじっと見つめてしまって…… その時、さっきは気付かなかった手首の傷に視線が止まってしまった。 「手首……」 思わず呟く俺に、彼はゆっくりと顔を上げて泣きそうに瞳を揺らす。 「あ、いえあの、別に無理に聞こうとかそんなことは思ってませんから!」 慌ててそう言ったら、彼は少しだけ安心したように頷いてもう一度カップに口をつけた。 「もう少し時間を下さい。凛の知り合いっていうだけのあなたに無理を言ってここで一緒に暮らしてもらってるのに、隠し事なんて本当はいけないことだって分かってるんです。でも、僕にはまだそれだけの勇気がなくて……」 なんだか儚くて消えてしまいそうな彼に胸が痛む。 「そんなこと…気にしないで下さい。べつにあいつに無理矢理ここにいろって言われたわけじゃないし……ここで暮らすことを決めたのは、俺自身なんですから」 「……ありがとうございます……」 静かにそう言って、彼は残ったコーヒーを飲み干して立ち上がった。 「ちょっと買い物に行ってきます。カップはシンクに置いておいてください」 そんな彼をなんだか一人にしたくなくて、俺は慌てて残ったコーヒーを飲み干して一緒に立ち上がる。 「あの、俺も一緒に行っていいですか?」 「……え?」 心底驚いたような表情を向けてくる彼に、俺は慌てて言い訳を探す。 「えっと、さっき作ってた資料で足りないものがあったのを思い出して……ついでに」 そう言ったら、彼は少しはにかんだような笑みを浮かべて小さく頷いてくれた。 「近くのスーパーなんですけど、いいですか?」 どうやら俺の下手くそな言い訳なんて見抜かれていたらしい。恥ずかしさに赤くなって頷けば、彼は今度は柔らかな笑みを浮かべてくれる。 「せっかく一緒に行ってもらえるならたくさん買い物したいんですけど…荷物持ってもらっても大丈夫ですか?」 「もちろんですよ。体力にだけは自信があるんです」 ホッとしながら俺もことさら明るく答えると、彼はまた笑って頷いてくれた。 その笑顔にときめきを感じてしまうということは…… なんだか自分の気持ちにドキドキしながら、カップをシンクに戻して彼と一緒にリビングを出た。

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