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第5話

彼と暮らし始めて半年も過ぎた頃、あいつから電話がきた。 『俺。兄貴とはどうだ?』 「ああ…まあ順調に暮らしてる。最初の頃に比べればずいぶん打ち解けてくれたし」 実際、今では朝食も一緒に摂るようになった。とはいえ、やはり食欲のないらしい彼はミルクにはちみつを溶かして飲むだけだけれど。 それでも、ダイニングのテーブルに向かい合って座り、時々思い出したように言葉を交わすこの関係が心地いい。 『それならよかった。実はいつおまえから出て行くって電話が来るかビクビクしてたんだ』 心底ホッとしたようにこいつが言うのに、俺は苦笑しながら窓から外を見下ろした。 「景色もいいし、ここを出て行く気にはなれそうにないな。もっとも、おまえの兄さんが出て行けって言えば別だけど」 そう答えたら、こいつは電話の向こうで黙り込んでしまう。 「どうした?」 『……いや、なんでもない。まあその返事を聞いて安心したよ』 「ああ、安心しててくれ。ところでおまえはどうなんだ? 仕事も頑張ってるのか?」 なんだかこのまま切ってしまうのがためらわれて、思わずそんなどうでもいいことを聞いてしまう。 『忙しくて死にそうだ。あいつとデートする時間さえないくらいな』 笑いながらそんなことを言われ、俺もつられて笑ってしまう。 「そりゃ可哀想に。彼も就職試験で忙しい頃じゃないのか?」 『そうみたいだ。まああと少しの辛抱だけどな。それまではとんぼ返りコースで我慢するさ』 「なんだ、会ってるんじゃないか。一人身の俺に惚気てくれるなよ」 『聞いてきたのはおまえだろう。人のせいにするな』 「はいはい。まあ頑張れよ」 『ああ、おまえもな。それから…兄貴を頼む』 真剣な口調で最後にそう言って、あいつは静かに電話を切った。 と、直後にノックの音。 「あ、はい」 「買い物行こうと思うんだけど…あ、電話中だった?」 まだ携帯のフラップを開いたままだった俺の手元に視線を止めて彼が聞く。 初めて一緒に買い物へ行ってからずっと、週末はこうして2人で出かけるのがなんとなく暗黙の了解になっていた。 「あ、今終ったとこ。凛から、変わったことないかって」 そう答えたら、彼は突然不安げに表情を揺らす。 「え、水都(みなつ)さん……?」 何か彼の気に触るようなことを言っただろうか? いや、そんなことはないはずだ。ただあいつから電話があったって言っただけで…… 「……凛、何か言ってた?」 不安そうに揺れる眼差しのまま、その声までが微かに震えて聞こえる。俺は小さく首を振り、とりあえず携帯をポケットにしまいこんだ。 「本当に、変わった事はないかってそれだけ。あとはちょっと惚気られたくらいだな」 それでもまだ不安そうな表情を崩さない彼に近づき、そっとその肩に手を置いた。 「何がそんなに不安なの? 俺がこうしてそばにいても、ダメなのか……?」 「ちがっ……」 慌てて首を振る彼の瞳から溢れた涙が零れ落ちる。 「……違う……。あなたが離れていくんじゃないかって、それが怖かっただけ……」 「え? どうして俺が?」 ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら俯いたままの彼が、微かに嗚咽しながら必死に言葉を紡ぐ。 俺と凛が、もう一度よりを戻すんじゃないかって思ったこと。俺が彼の元から離れていくんじゃないかってことを。 「……ねえ水都さん、凛にはもう俺じゃない大切な相手がいるんだ。ここを買ってくれないかってあいつに頼まれた時、俺…正直言えばもう一度やり直せるかもしれないって思った。だからわざとあいつに直接会って返事するって言った。でもその店で、あいつの新しい相手を偶然見かけて…もう絶対に戻れないって分かった。俺の入る隙間なんてほんの少しもなかったから」 「でも……」 「さっき凛にも言ったんだけど、俺はこの部屋を出ていく気はないよ。水都さんが出て行けって言うまでは」 そう答えた俺に、彼はそうとわかるほどに身を震わせて顔を上げた。 「僕が出て行けって言ったら出て行くの!?」 縋るような必死な声。 「え、だって…そうなったらいられないだろ、ここには」 また零れ落ちる大粒の涙。 「……健志……」 彼は切なげにそう呟いて、そのまま気を失ってしまった。 彼を自室のベッドに寝かせ、ため息がこぼれる。 誰の名前を呟いたんだろう……そんなことばかり考えて胸が痛い。 「くそっ」 涙の跡が残る頬をそっと拭い、俺は彼の部屋を出るとリビングでポケットから携帯を引っ張り出し、あいつの番号を呼び出す。数回の発信音の後ですぐに出たあいつは、まるでこれを予期していたように言った。 『明後日そちらへ行くんだ。あの店で会えないか? ちゃんとおまえには話しておくべきだったな……』 先手を打たれて何も言えない俺は、深呼吸をしながら気持ちを落ち着けて時間を指定する。 「わかった。じゃあ午後6時に」 『……すまない』 「今さらだ。聞かなかった俺も悪いんだし。今度は全部話してくれるのか?」 少しイラついた口調でそう言ってしまった俺に、あいつはしばしの沈黙の後で思いがけないことを聞いてきた。 『おまえ…兄貴をどう思ってる? 半年一緒に暮らして、どうだ?』 「な、何言ってんだおまえ!? どうって、どういうことだよ」 『言葉の通りだ。兄貴に特別な感情を抱いてるかどうか聞いてる』 「って……」 それに俺はどう答えていいかわからない。 確かに、一緒に暮らして彼の笑顔を見るたびに胸がときめくことはよくあった。でもそれが彼に対する特別な感情なのかと聞かれれば…… 「……惹かれてるとは思う。あの人が笑ってくれるのが嬉しいし、ときめいたりもする」 とりあえずそこまで言って、俺は一息ついた。 「だけどそれ以上の気持ちはない。おまえと付き合ってた頃に感じたみたいな…おまえを抱きたいとか、そんな気持ちは、あの人には持ってない……」 『……そうか。とりあえず明後日ゆっくり話そう。じゃあ』 静かに切れた携帯を握り締めてもう一度ため息をついた後、俺はまた彼の部屋へ戻ることにした。

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