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第6話

約束の時間少し前に訪れたいつもの店のカウンター。先に来ていたらしいあいつはグラスを傾けていた。 「待たせたか」 そう言って隣に腰掛け、いつもの酒を頼む。 「いや、仕事のキリが付いたから少し早めに来ただけだ」 「……なんだ、仕事の都合だったのか」 「当たり前だろう?」 不思議そうに答えるこいつに、俺はグラスを受け取りながら苦笑する。 「彼に会いに来たのかと思ったのさ」 そう答えれば、あいつは微かに頬を染めてまたグラスを煽っていた。 「平日は会わない。……辛いじゃないか」 ポツリと呟くこいつに俺も黙って頷いて、それからしばらくは無言のまま互いにグラスを空にした。 「……本題に入ろう」 2杯目の酒を飲み干したあと、こいつはまじめな口調でそう言った。 「ああ。そのためにわざわざここへ寄ってくれたんだからな」 俺がそう答えると、こいつは小さくため息をついて3杯目のグラスに口をつける。 「飲みすぎじゃないのか?」 「これくらいなら大丈夫だ。帰るまでに醒めるさ」 「それならいいが……」 「おまえ、兄貴に今夜ここへ来ることを言ったのか?」 唐突にそんなことを聞かれて、俺はただ小さく首を振った。 「いや、今夜は仕事の関係でちょっと遅くなるとは言ってきたけど…おまえに会うとは言ってない」 「じゃあいいんだ。本当はこんなこと、兄貴自身の口から聞いたほうがいい事なんだが……」 「もったいぶるな。さっさと言えよ」 言い渋るようなこいつの物言いに少し苛立ちを感じ、つい声を荒げてしまう。 「ああ、すまない。それからもう一度確認したいんだが…おまえ、兄貴に特別な感情を持ってるか?」 それに俺は小さくため息。 「それは一昨日も言っただろう。確かに俺は水都さんに惹かれてる。でもそれは恋愛対象としてじゃなくて……」 「この先は分からないだろう?」 それに俺はなんとも言えない。 このままこの気持ちが褪めていくのかそれとも特別なものに育っていくのかは、俺自身にもまだわからないから。 「そう、だな……」 正直に頷けば、こいつはやっと納得したのか小さく頷いた。 「……5年前だ。兄貴はあの部屋で、恋人と一緒に暮らしてた」 唐突に話し始めるこいつに、俺はなんとなく居住まいを正すようにスツールに腰掛けなおし、ゆっくりと視線を向ける。 「……仁野健志(にの けんじ)。おまえ、その名前に心当たりはないか?」 不意にそう聞かれて、俺は必死で自分の交友関係を思い巡らせ…一人だけ思い当たる人物に突き当たった。 「え……?」 まさか、でも…… 「ひどい雨の日だった。些細なことで喧嘩して、兄貴はそいつに出て行けと怒鳴った。そいつは言われたとおりに出て行って…二度と、兄貴の下へは戻って来なかった」 「…………」 こいつが淡々と言葉を綴っていくのを聞きながら、全身が小刻みに震えた。 「兄貴は、自分のせいだって責めて責めて……数え切れないくらい手首を切った。俺が一緒に暮らすようになってずいぶん落ち着いたけど、それでもふと思いついたみたいに手首を切って、病院に運ばれて…それが原因で仕事もやめて、今度は部屋の中に引きこもるようになった……」 次々とこいつの口から明かされる事実に、俺は驚きを通り越して衝撃さえ受けていた。 「……まさかおまえ、今回のことは、全部知ってて……?」 その衝撃から立ち直ってこいつに疑問を向ければ、こいつはどこか申し訳なさそうに瞳を揺らして頷いた。 「でも…知ったのはおまえと別れてからだ。最初からそのつもりだったんじゃない」 「…………」 「それだけは信じてくれ。あの日俺は本当に、それまで付き合っていた相手に振られて、自棄酒を煽ってたんだ……」 俺の中に芽生えようとしている不信感を敏感に感じ取ってか、こいつは慌ててそう言った。 俺はなぜだかイライラした気分を抱え、3杯目のグラスを一気に煽る。 でもそれはこいつに向けられるものじゃなくて。 彼と、そして今もまだ彼の中に生き続けている仁野健志に対してだ。 「別におまえを疑っちゃいない。あのときのおまえの状態が演技だとも思っちゃいないし、その後で俺と付き合ったことだって、最初から今回のことを計画してだとは思ってない」 そう答える俺に、こいつはホッとしたように息を吐いた。 「俺は、本気でおまえが好きだったよ……」 「…………」 すれ違っていた現実が今になって明らかになっても、俺達はもうあの頃には戻れない。 こいつには誰よりも大切な相手がいるし、俺は…… 「出来れば、兄貴を好きになって欲しい。兄貴の中から、仁野健志の存在を消してやって欲しい」 真剣な眼差しでそう告げるこいつに、俺はまた何も答えられない。 「兄貴だって本当は忘れたいんだ。でも忘れるには罪の意識が重すぎて……」 自分の一言が、恋人を死に追いやってしまったのだと彼は思い込んでいるのだから。 「……努力してどうにかなるもんでもないが…無駄なあがきはしてみるさ」 そう答えた俺に、こいつはホッとしたように視線を伏せた。 「頼む……」 そしてグラスに残った酒をゆっくりと飲み干す。 「じゃあ俺は帰る。明日も早いからな。それから今夜は俺の奢りだから…マスター、次まで付けておいてもらえるかな」 そう言葉を向ければ、マスターは穏やかな笑みで頷いてくれた。 「じゃあな。好きなだけ飲んでいいが、兄貴にばれないように頼むぞ」 「分かってるさ。俺ももう帰る」 今日は彼の仕事は休み。きっと、自分の食事も摂らないで待っていてくれるから。 「ごちそうさま、マスター。また来るよ」 そう言って立ち上がる俺に、マスターはあいつに向けたのと同じ穏やかな笑みで頷いてくれた。

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