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第7話
なんだか軽い足取りで帰ったマンションでは、思ったとおり彼が夕食の仕度をして待っていてくれた。
「先に食べてていいのに」
本当は嬉しいくせにそんなことを言えば、彼はうっすらと微笑んで小さく首を振る。
「ひとりで食べるの、嫌なんだ」
「……うん」
そっと彼の髪に触れて、なんだか照れくさくてすぐにその手を離して、俺は着替えてくるとごまかすように言って慌てて自室へと駆け込んだ。
『出来れば、兄貴を好きになって欲しい。兄貴の中から、仁野健志の存在を消してやって欲しい』
あいつにそんなことを言われたからだろうか……
妙に意識してしまって、彼をまともに見られないのは。
「ったく……」
情けないぞ自分。と胸の中で喝をいれ、とりあえず部屋着に着替えてダイニングへと向かう。
ドアを開けるといい香りが漂い、テーブルの上には湯気を立てる料理の数々。
「豪勢だな、今夜は何か?」
ダイニングの席に着きながら聞けば、最後の料理を運び終わって向かいに腰掛けた彼がまた小さく笑う。
「半年目の記念に……」
どこか控えめな彼に、俺は瞬時に頭の中でここへ引っ越してきた日を計算する。
「……ね?」
そう言ってまた笑う彼に、俺も微笑んで頷く。
半年前には想像も出来なかった、こうして彼と向かい合って食事をする現実。
他愛もない会話を交わし、笑い合う。
この時間を壊したくないと思う。この笑顔を封じてしまいたくないと思う。
だから俺は決めた。
彼が、仁野健志の存在を自分から俺に告げるまで、知らないフリをし続けることを。
それから2ヶ月ほど過ぎたある日。
いつものように彼と一緒に買い物へ出た土曜日の午後。近所のスーパーを出ると、さっきまでの晴天が嘘のようにどんよりと曇り始めた空からは、大粒の雨が降り出していた。
「うわ、降ってきたな……。どうしよう水都さん、傘でも買って……」
呟きながら視線を流した隣の彼は、自分の腕を抱えるようにしながら微かに震えている。
「水都さん? 気分でも悪いの?」
さっきまでは普通だったのに。いつもと変わらず、俺の好物ばかりをカゴに放り込んで、笑っていてくれたのに。
「急いで帰ろう。荷物貸して、俺が持つから。それから、ここまで車持ってくるから水都さんはここで待ってて」
その手からビニール袋を奪い取るようにしながら車の鍵を出し、走り出そうとした俺の腕を彼が引きとめる。
「行かないで―――」
どこか必死な、縋るような眼差し。
「でも……」
「ひとりにしないで。お願いだから」
泣きそうな声にそれ以上は言えず、俺は車の鍵をもう一度ポケットにしまって中へ戻ろうと促す。
「こんなところにいても仕方ないし、座って落ち着いたほうがいい」
「……ごめんね」
俯いてしまう彼の背中をそっと押して、俺たちは入口のそばに併設されたカフェスペースに席を取った。
「何か飲む? 俺はコーヒー買ってくるけど」
荷物を隣の椅子に置き、まだ俯いたままの彼に問えば、ハッとしたように顔をあげてそれから小さく頷く。
「僕も…コーヒーを」
「ん。…一緒に、行く?」
ふとさっきの彼の様子を思い出し、立ち上がりかけてもう一度聞けば、今度は俯いたままで小さく首を振った。
「そこの店。すぐに戻るから」
彼が顔を上げたらすぐに俺の姿が視界に入るよう、一番近くのその店を選んだ。
店員にコーヒーを頼み、ちらりと振り返った彼はまだ俯いたまま。
2人分のカップを受け取って席に戻り、彼の前に置くとようやくゆっくりと顔を上げてくれた。
「大丈夫?」
「……うん」
「通り雨かもしれないから、これ飲んでる間にやんでるといいな」
熱いコーヒーに口をつける俺に、彼はまた申し訳なさそうに小さくごめんと呟く。
「……この店さ、一緒に買い物来るようになってずいぶんたつけど、ここでコーヒー飲んだの初めてじゃない?」
きっと彼は、今もまだ忘れられない過去の傷を思い出しているんだろう。
それを考えさせたくなくて、どうでもいいような話題を振れば、彼は不思議そうな顔をして俺を見つめてくる。
「んー…そういえば水都さんと2人で喫茶店とか行ったことないな、ってね。なんかちょっと思っちゃって」
なんだかそんなデートみたいなこと…と言いかけて、ごまかすように笑ってカップに口をつける。
彼はやっと小さな笑みを浮かべてカップを手にとり、そっと口元へ運んだ。
「たまにはいいな、って思うんだけど…こんな時間。水都さんは?」
伺うような問いを向ければ、どこか恥ずかしそうに頬を染めながら彼も頷いてくれた。
なんだかそんな何気ないことが嬉しいと思う。
こうして少しずつ、彼の中からあの男の存在を消して行くことができればいいのにと思う。
それからしばらく他愛もない会話をするうちに、彼はすっかり落ち着きを取り戻していた。
「そろそろやんだかな。腐るといけないから帰る?」
頃合を見て彼を促せば、やっぱりどこか申し訳なさそうな目を俺に向けながら、頷いて立ち上がった。
「ごめんね…ありがとう。あなたがいてくれてよかった……」
ほんのりと微笑みながら赤く染まる頬に、なんだかドキッとした。
「そんなこと……」
ごまかすように袋を掴んで俺も立ち上がり、ポケットを探って車のキーを出す。
「……帰ったら、聞いてくれる? 僕の過去…雨の日の、僕の後悔……」
俺の後ろを少し遅れて歩きながら、彼がふとそんなことを聞いてくる。
それに正直少し胸は痛んだけれど…彼が話そうと決めたときには、聞いてあげるつもりだったから。
「俺なんかに、話してもいいこと?」
それでも、素直にいいよとは言えずに…そんな意地悪な返事をしてしまってハッとする。
「あ、ごめん……。うん、聞くよ」
背中越しに慌ててそう言い直せば、ホッとしたような吐息が聞こえた。
スーパーの入口を出れば、さっきの雨が嘘のようにすっきりと晴れ渡った空。
それを眩しく感じながら、俺は彼を促して車へと急いだ。
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