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第8話

マンションに帰り着き、彼は慣れた手つきで買ってきたものを片付け、それからリビングのソファにゆっくりと腰掛けた。 「何から話したらいいのかな……。あなたはどこまで、凛に話を聞いてるの?」 頼りなげに向けられる視線に、俺はあいつに聞いたままを彼に語って聞かせた。 「……本当に些細なことだったんだ。出て行けなんて、そんなこと言わなくてもよかったのに。僕が席を立って、自分の部屋に戻ればそれですんだことだったのに……」 後悔に震えながら言葉を綴る彼の瞳から涙が溢れる。 俺はゆっくりと彼の隣に身を移し、その肩をそっと抱き締めた。 「隼人さん……?」 「少しでも水都さんが落ち着けるように。俺は何を聞いても、あなたから離れて行ったりしないから」 「…………」 「だから安心して。もう話したくないなら、それでもいいから」 それに彼は小さく首を振って、深呼吸をする。 「彼とは、大学時代の同級生だったんだ……。その頃はお互いにそんな特別な感情も持っていなくて、ただの友人同士だったのに。就職して会うこともなくなって、いつだったかな…大学時代の友人が同窓会をしようって言い出したんだ。仲のよかった数人が集まっただけなんだけど、その席に彼もいて…そこから、僕たちの関係は始まった。すぐに深い仲になって、彼はここへ引っ越してきた。仕事場に近いからちょうどいいなんて言ってたけど、僕は嬉しかった」 そこまでを一息に言って、彼は気持ちを落ち着けるように深呼吸をひとつ。 「彼と一緒に過ごす時間はすごく楽しくて、僕は仕事が終わるとどこにも寄り道もしないで帰ってきて、彼のために食事を作って、帰りを待ってた。彼に溺れてた…彼がいなきゃ生きていけないんじゃないかってくらい彼を好きだった。そんな僕が、嫌になったのかな……。ある日ね、彼が突然言い出したんだ」 泣き笑いの表情は、そいつの言葉を思い出すからなんだろうか。 「おまえはもっと、外の世界を見るべきだって……」 「外の世界……?」 思わず問いかけた俺に、彼は小さく頷く。 「家の中にばかりこもってないで、自分の帰りばかり待ち続けてないで、もっと友人を作って遊んで来いって」 「…………」 「遊びたくなかったわけじゃない。でもあの頃の僕は、何をするよりも彼のそばにいたかったんだ。彼がいてくれれば、それでよかったんだ……」 ポロポロと溢れ出す涙が悲しくて、胸が痛む。 「……それが、原因?」 俺の問いに、彼はまた小さく頷いた。 「どういうことって聞いた僕に、彼は言葉のまんまだって…それ以上は何も言ってくれなかった。それっきり黙りこんで、僕が何を言っても知らん顔で……。だから、出て行ってって…僕の前から姿を消してって、そう怒鳴った。そうじゃなくて、僕が出て行けばよかったんだ。そんな彼と一緒にいるのが辛かったのは、僕だったんだから……」 「水都さん……」 その肩を抱く手に力を込めようとするより早く、彼が俺に縋り付いてくる。 「そしたら本当に…この部屋を出て行って、二度と僕の前に戻ってはくれなかった。僕があんなことを言ったから…僕が彼を、この部屋から追い出したから……!」 「それは違う、水都さん」 荒れ狂う波のような感情に身を任せて叫ぶ彼に、俺は思わずそう言って彼を抱きしめた。 「違わない! 僕のせいで…彼は……!」 「そんな悲しいこと言わないでよ、水都さん。あいつが死んだのは、あなたのせいなんかじゃない。あなたが追い出したからなんかじゃない」 さらに抱きしめる腕に力を込めれば、彼の震える体が切ないほどに近く感じる。 「だって…だって、僕があんなこと言わなきゃ、彼がこの部屋を出ることなんてなかった……」 「……違うよ、水都さん。たとえあなたがあの日あいつを追い出さなくても…結果は同じだった」 そんな俺の言葉に、彼はゆっくりと顔を上げると俺を見上げてきた。 「どういうこと……? それにあなたは、彼を知ってるの……?」 それに俺は、ただ小さく頷く。 凛から聞いた話をしたとき、俺とあいつの関係は伏せたままだったから…… 「あいつは、俺の兄貴。っていっても、親父の浮気相手が産んだ子供だから、半分だけ血が繋がってるってわけ」 そう告白した俺に、彼は驚いたように目を見開いた。 「ずっとあいつの存在なんて知らなかった。親父は何も言わなかったし、おふくろも…まあ、当たり前だよな。でもあいつは俺のことを知ってたみたいで、初めて会ったのは俺が大学2年の時。あいつのおふくろさんが亡くなったらしくて、親父に手紙を渡して欲しいって預かったのが最初だった」 『俺のこと産むだけ産ませといて、後は知らん顔ってあんたの親父に文句のひとつも言ってやりたかったけどさ…そんなことしたって、母さんが悲しむだけだってわかったからあんたに預ける。渡すも渡さないもあんたの自由でいいから』 突然呼び止められ、何のことか分からないままに押し付けられた1通の手紙。 どうしようか迷って迷って…結局俺は、それを親父に渡した。 あいつのその言葉を添えて。 親父から真相を聞いたのは、それから2年後。俺の就職が決まったのを機に、おふくろは離婚届を置いて出て行った。これでやっと、肩の荷が下りたと言って。 「親父の気持ちは浮気じゃなくて本気だったってのが、すごくショックだった。知らないままでいたかったのにって今度は俺があいつに恨み言のひとつも言ってやりたくて、ずいぶん探した。その中で、あいつがどれだけ苦労して育ってきたか知るうちに、なんだか俺の恨み言なんてすごくちっぽけなものに思えてきてさ…結局、やめた。それっきり会わないつもりだったんだけど、俺…一人っ子でさ、昔から兄弟って存在に憧れてたんだ。だから、親父たちのことは抜きにして、あいつと兄弟としてこれからも会えたらって、そんなこと思っちまって」 そこまでを一息に言って、深呼吸をする俺の胸元を掴む彼の手に力がこもる。 「……会ったの? それからも、健志と?」 「うん…何度かね。あいつも俺と同じ気持ちだったみたいで、驚いたけど嬉しいって笑ってた」 彼の瞳がまた悲しげに揺れる。 「あいつさ…いつも俺に会うたびに惚気てきた。すっげー可愛くて料理上手で最高の恋人と暮らしてるって。あれ…あなたのことだったんだね」 そっとそっと、その柔らかな髪を撫でた。 「僕の、こと……?」 「あいつは、水都さんのことをすごく大切にしてた。一生にひとりだけの恋人だって、いつも言ってた」 微かに揺れる瞳から、涙が落ちる。 「こんな結果になったけどさ、いつまでもあなたがそんなふうに悲しんでたら…あいつが死んだのは自分のせいだって責めてたら、あいつだって辛いんじゃないかな」 そんな俺の言葉に、彼はハッとしたように息を呑んだ。 「5年間も自分を責め続けたんだから、もう十分だよ。あいつのことを忘れられないのは仕方ないけど、せめて、自分を許してあげなきゃ」 「……許されてもいいのかな、僕は……」 それに俺は頷き、溢れ続ける涙をそっと拭う。 「あいつは最初から、あなたのせいだなんて思ってなかったんじゃないかな。事故の後、俺のところに警察から連絡が来て…あいつ、幸せそうに笑ってた。眠ってるみたいに、安らかな死に顔してた。きっと最後の瞬間まで、あなたのことを思ってたんだよ」 「……健志……」 俺の胸であいつのことを思って泣き崩れる彼にこんなにも胸が痛むのは…きっと俺が、彼に恋愛感情を抱き始めていたからだろう気がした。

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