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第9話

それからの彼は、時々ぼんやりと窓の外を見つめていたりすることはあったけれど、俺を頼ってくることはなくなった。 それが寂しいようなホッとしたような…そんな気持ちを抱えていたある日、俺はふとあいつの遺品の中にあった1枚の紙切れの存在を思い出した。 「確か…どこかに」 あの日、あいつが事故に合ったとき穿いていたジーンズのポケットに入っていた、小さな紙切れ。 葬式やらなんやらで忙しく、他の遺品と一緒に箱の中に詰め込んだまま今までずっと忘れていたのに。 「あった…これだ」 遺品って言ったって、本当に僅かな身の回り品しかなかった。 質素な暮らしはきっと、母親が生きている時からだったんだろう。あいつはこのマンションに転がり込んでいたわけだけど、借りっぱなしになっていたアパートの解約のために訪れた親父は、後悔に震えながら泣いていた。 どんなことをしても探し出して、幸せにしてやるべきだったんだと言って。 「…でも俺は、あんたが不幸だったなんて思ってないから。そんなふうに思われるの、嫌だっただろ?」 遺品の箱にしまわれた、真新しい携帯電話。 『俺さ、携帯持ってないから無理。俺から連絡するからおまえの番号だけ教えて』 それぞれに忙しくなって、今までのように日にちを決めて会うのが難しくなったから連絡先の携帯番号を聞いたとき、あいつはそう言って逆に俺の携帯番号を聞いた。 『やっぱあると便利だよな。俺も携帯持つかな』 最後にあいつと会ったとき、そんなことを言って笑ってた。 「登録してあるの、俺の番号だけかよ……。なんで、大事な恋人の番号は入れてないんだよ……」 メモリーに残されているのは、弟と登録された俺の携帯番号だけ。 「俺、あんたの番号知らないままだったな。水都さんには、ちゃんと教えてたのか?」 今はもう使えない携帯のディスプレイにそんなことを呟いた時、微かに聞こえたノックの音。 「どうぞ」 どこか遠慮がちに顔を覗かせる彼に手招きをして、俺は手にしていた携帯を彼に差し出した。 「あいつの携帯。あなたは、番号知ってたのかなと思って」 それに彼は小さく首を振る。 「持ってることも知らなかった。彼とは、2年間一緒に暮らしたけど…何も知らないことばかりだった」 その瞳に涙は見えない。静かに語る声にも、悲しみは感じない。 5年間抱え続けてきた罪の意識と一緒に、あいつへの思いも昇華されたんだろうか? だとしたら…彼の心に、俺が入り込むこともできるんだろうか? そんな醜い考えにハッとした。 「あ…ところで、なんだった?」 「お昼ご飯、できたから。どうかなと思って」 いつもと変わらない笑み。でもその表情に、俺への特別な感情は当たり前のように読み取れない。 「ん、ありがとう。すぐに行くから」 「じゃあ、冷めないうちにね」 そう言い置いて、彼はすぐに俺の部屋から出て行った。 手にしていた携帯を箱に戻し、俺は本来の目的だったその紙切れを広げてみた。 「なんだこれ……?」 宝石店の名前が入った予約票。受取日は5年前のあの日、あいつが事故でこの世を去った日だ。 「あいつ…何を……」 でもあいつは、何も持っていなかった。 まさか事故にあって倒れている被害者から、金目のものを盗んでいくような泥棒もいないだろう。 「行ってみるか……」 ダメで元々だ。 俺はその紙切れをもう一度たたみ、ポケットに突っ込んで部屋を出た。 彼の作ってくれた昼食を済ませ、食べ過ぎたから腹ごなしの散歩に行ってくるとごまかして部屋を出た。 高級デパートのテナントであるその店は、なんだか俺には場違いなくらいに煌びやかで、一瞬足がすくんでしまう。そんな自分を奮い立たせ、思いきって店に足を踏み入れる。 「あの……」 「はい、いらっしゃいませ」 にこやかに対応してくれる店員の女性に、俺はポケットに忍ばせたあの予約票を広げて見せた。 「これなんですけど……」 彼女は最初訝しげにそれを見ていたあと、ふっと何かを思い出したように奥へと引っ込んでいった。 そしてまたすぐに現れた彼女の手には、大粒の真珠がひとつだけついたネックレス。 「大切な人の誕生日プレゼントだって言われてました。受け取りに見えたのかと思ったら、実物を確認しに来ただけだって…贈りたい相手を連れてくるからって、帰って行かれたんです」 5年も前の事をどうしてそんなに鮮明に覚えているのかを問えば、彼女は少し寂しそうに微笑んでそのネックレスに視線を落とす。 「印象深いお客様でしたから……。贈りたい相手は自分と同じ男性だけど、こんな真珠よりももっともっとキレイだって惚気られましたし。それに私、息子を亡くしているんです。生きていれば、この方と同じくらいだったな、と思って……。何度も何度も足を運ばれて、このネックレスに決められるまでにもずいぶん時間がかかったんです。だから余計に。でもそれきりいらっしゃらないから…もしかして、恋人に贈れなくなった事情でもあったのかと心配していたんです」 「そうだったんですか……」 「失礼ですが、あなたは代理の方なんでしょうか? お代のほうはもういただいておりますので、このままお持ち帰りになられても問題はありませんが……」 そう言って差し出されたそのネックレスに、俺は小さく首を振った。 「あいつがそうしたがってたように、これを贈られるべき相手を連れてきます。今度こそ本当に」 「あの…差し出がましいことを聞くようですが、あの方は……」 それに俺は一瞬戸惑い、なんとか笑顔を貼り付ける。 「仕事の都合で、遠いところへ行ってるんです。まだしばらく帰って来られないみたいで、思い出したように俺に受け取ってきてくれって」 本当の事を告げたところで仕方ない。それに、あいつをまるで息子のように錯覚して覚えていてくれた彼女を、二度も悲しませる必要もないわけだし。 「そうだったんですか……。お待ちしてますね、真珠よりもキレイなその方がお見えになるのを」 小さく笑って冗談めいた口調でそう言う彼女に笑って頷き、俺は店を出た。 どう言って彼を誘ったらいいんだろう。 本当のことを言っても、彼は俺と一緒に来てくれるだろうか。 そんなことを考えながら帰りついたマンション。 「お帰りなさい。ずいぶん遠くまで散歩に行ってたの?」 そう言って笑う彼に、俺も曖昧に微笑んで頷いた。 「ねえ…健志のお墓参り、連れて行ってもらってもいいかな……」 コーヒーでも淹れようかと席を立った彼が、ふと俺にそんなことを聞いてくる。 「……もちろんだよ、水都さん」 そう答えた俺に、彼はホッとしたような笑顔。 「じゃあさ、その前にちょっと寄りたいところがあるんだけど、付き合ってもらえる?」 無理な口実を作って彼を連れ出すよりはいいような気がした。 「うん。でね…急で悪いんだけど、明日でもいいかな」 「明日?」 「何か用事ある?」 「いや、別に……。わかった、じゃあ明日」 差し出されたカップを受け取ると、彼は何かを言いたげに微かに瞳を揺らす。 でもそれは結局何も言葉にはならず、彼は買い物に行ってくるからとひとり部屋を出て行った。

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