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第30話

すっかり週末の常連として定着した隼人は、いつものようにカウンターの席に腰掛けてコーヒーを飲んでいた。 バイトとして働く侑里(ゆうり)ともすっかり仲良くなり、今のような客の切れ間には他愛もない話をするようにもなった。 と、カランとドアベルの音。 「いらっしゃいませ」 そう声をかけた侑里の頬がほのかに赤く染まるのを見て隼人が入口へと視線を流せば、見知らぬ客が微笑んでカウンターのほうへと近付いてくる。 見たところ隼人より2つ3つ年上だろうかと思われる彼は、人のいい笑みを浮かべたままで隼人の席からひとつ空けた場所へと腰掛けた。 と、奥の厨房から戻ってきた水都もまた彼に柔らかな笑みを向ける。 「いらっしゃい、久しぶりだね。別のお店に心変わりされちゃったかと思ってた」 「おいおい、たかが2ヶ月ばかり顔出さなかったくらいでそれはないだろ?」 「冗談だよ。いつものでいい?」 「ああ、頼む」 2ヶ月というと、ちょうど隼人がこの店に顔を出し始めた頃。だとすれば自分が知らなくても仕方ないか…とため息にも似たものをこぼした時、水都が隼人のほうへと視線を向けた。 「えっと…紹介するね。僕の大学時代の友人で、関谷」 どうも、と軽く会釈する彼に、隼人も慌てて頭を下げる。 「それからこちらが…隼人さん」 恋人だと紹介してくれるかとどこかで期待していた隼人は、なんだか肩透かしを食らったような気分になりながらも、よろしくとまた小さく会釈する。と、関谷と紹介された彼のほうが驚いたような視線を向けてくる。 「あの……?」 「……君が噂の隼人さんか……」 クスッと小さく笑う関谷に、隼人は何がなんだか分からず水都へと視線を向ければ、どこか怒ったように関谷を睨みつけていた。 「水都さん……?」 嬉しいような戸惑うような複雑な気分だ。一体どこでどんなふうに自分のことを話されていたのかと。 「なんでもないんだ、隼人さん。彼の言うことなんて気にしなくていいから」 「あ、ああ……」 とは返事をするものの、やはり気になって仕方ない。 そっと関谷へと視線を流せば、話を振った当の本人はもうそんなことなど忘れてしまったかのように侑里と仲良く話に花を咲かせている。 だが時々チラリと盗み見る隼人の視線には気付いていたのか、ごちそうさまと席を立った隼人のあとに続いて関谷も店を出ると、駐車場で声をかけられた。 「時間、少しいいかな?」 「え、あの……」 「聞きたいんだろ? さっきの俺の言葉の意味」 咄嗟に返事を出来ずにいた隼人の無言を肯定と受け取り、関谷は駐車場の奥まった場所へと隼人を誘う。 「水都に見つかったら怒られそうだからな」 笑いながらそんなことを言って。 そして関谷から語られる話は、どこかで胸の痛みを感じながらもそれを上回って余りあるほどに幸せを隼人にもたらし、どこか恥ずかしそうに頬を染める隼人に関谷はクスクスと笑っている。 それがさらに恥ずかしさを増幅させるのに、緩んだ頬がどうにも戻らない。 『とにかく、俺と会ってても話題は君のことばかり。直接君に会う前からなんだか知り合いの気分だったよ』 最後にそう笑って去って行った関谷に、隼人は落ち着かない気持ちをもてあましながら車へと乗り込み、だがやはり幸せな気持ちに包まれたままで帰途に着いた。 隼人との付き合いが始まってしばらくした頃から、水都は月に1度だけ週末の休みを取ることにした。 もちろん、隼人とゆっくりデートをするためだ。 それに、どうやら侑里も休みたいのに言い出せない様子を見せ始めたから。 初めてのデートはなんだかお互いに意識しすぎて緊張してしまったけれど、それも回を重ねるごとに以前のようにごく自然に2人でいられるようになっていった。 「久しぶりだな…この部屋へ来るのも」 今日はどこへ行こうかと聞いた隼人に、部屋へ来ないかと誘ったのは水都だった。 一緒に暮らしていたあの頃と何も変わらない部屋に、懐かしさがこみ上げてくる。 リビングのソファに腰掛け、キッチンで水都がコーヒーを淹れてくれるのを待っていると、まるであの頃に戻ったような気になってきた。 「ねえ、水都さん……」 「あのね、隼人さん……」 思いがけず重なる声に、どちらもそれきり黙りこむ。 驚いたように隼人がキッチンの水都へと視線を向ければ、水都もまた隼人を振り返っている。 「あ、いや…水都さんから……」 「ううん、隼人さんのほうこそ……」 お互い譲り合って、結局どちらも言えないままだ。 それでも、コーヒーを淹れていつものように向かいのソファに腰掛ける頃には、水都も落ち着きを取り戻したようで、小さく深呼吸をしてさっき言いたかった言葉を唇に乗せた。 「あのね、隼人さん……もし、嫌じゃなかったら…もう一度ここで、僕と一緒に暮らすことを考えてみてもらえないかな……」 「……え?」 その思いがけない水都からの申し出に、隼人は一瞬何を言われたのか理解できなかった。 「水都さん……?」 「ごめんね、勝手なこと言って。でも…もしもう一度隼人さんが戻ってきてくれたら、すごく嬉しい……」 恋人同士になれたとはいえ、それらしい行為はまだ一度もない。 そんな気分にならないのでもなれないのでもなく、ただただ気恥ずかしさが先に立ってしまうから。 こうしてデートなんてことをするようになったのさえまだ最近で、それまでは水都の店に隼人が顔を出し、他の客と一緒に過ごすというムードも何もないものだったから。 「……寂しいんだ、一人ぼっちが。いつも、あなたが一緒にいてくれた頃のことを思い出してる」 ポツリと呟かれた水都の言葉。だがそれは隼人も同じだった。 「ここへもう一度戻れるなんて…思ってなかった」 「隼人さん?」 「ここを出ようと決めたとき、本当はあなたのそばを離れるのが辛くてたまらなかった。泣いているあなたを一人で放り出すなんて、なんてひどい奴なんだって自分に嫌気がさした」 深呼吸で気持ちを落ち着け、隼人はゆっくりと水都を見つめて微笑んだ。 「引越しは、すぐでもいいかな」 どこか不安そうに隼人を見つめていた水都の表情が、その一瞬で明るい笑みを浮かべ、強く頷く。 「いつでも…待ってるから……」 それに隼人も頷き、それからゆっくりと席を立って水都の隣に移動し、そっとその肩を掴む。 「隼人さ……」 皆まで言わせず、そっとそっとその唇に触れる。 初めてのキス。そして誓いのキス。 もう一度ここから、2人で始めようと。 ひとりは辛いけど、2人ならきっとどんなことも乗り越えていけるから。 「ずっと一緒に歩いていこう…水都さん」 「……うん。ずっと一緒にいて、隼人さん」 もう間違ったりしない。一番大切な人の手を離したりしない。 しっかりと握り合った手に、互いの温もりを感じる。ひとりじゃない…その思いが、互いを強くしてくれる。 今この瞬間にも。

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