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act.7 Angelic Kiss 〜 the 3rd day 1
──拓磨くん。
遠くから聞こえてくるきれいな声が、鼓膜を優しく揺さぶる。それは、俺の大好きな人の奏でる愛おしい声に違いなかった。
辺りに立ち込めていた霧がおもむろに晴れて、目の前に屈託のない清らかな笑顔が浮かび上がってくる。俺を見つめる一点の曇りもない美しい眼差しに、胸が締めつけられる。
忘れたくても忘れられない、大好きだった初恋の人だ。
ああ、今日はあの甘い匂いをちゃんと纏っているんだ。
それが無性に嬉しくてたまらない。
不思議と俺は、今自分が夢を見ていることを自覚している。どうやら明晰夢というやつらしい。
俺よりも五歳上の彼女は、夢の中ではいつも年下だ。最後に会ったときから、時間が止まっているからだろう。
彼女に抱くこの想いもきっとそうに違いない。あの頃のまま、昇華することもできず胸の内に澱のように溜まっている。
朋ちゃん。俺、ずっと後悔してるんだ。
どうして俺は、あの時──。
──拓磨くん。拓磨くん。
何度も名を呼ばれて、意識が奥底からふわりと浮上していくのを感じる。空が白み始めるように、閉ざされた曖昧な世界が徐々に広がり、そして俺は逃げ場のない現実へと引き戻されていく。
ゆっくりと重い瞼を開ければ、幾度夢に見たかわからない彼女が俺の顔をじっと見つめていた。
違う。彼女にとてもよく似ているけれど、この子はけっして彼女ではない。
ふと鮮明に記憶が蘇ってくる。雨の夜に俺のもとへと降り立った、天使のようにきれいな──ハルカ。
「ごめんなさい」
形の良い桜色の唇から朝一番にこぼれたのは謝罪の言葉だった。
「起こさないように抜け出そうとしたんだけど。どうしても難しくて」
そう言われて初めて、自分が両腕で羽交い締めにするようにこの子を抱きしめていたことに気づく。
眠っていたというのに俺はハルカを容易く振り解けないほど強く抱いていたらしい。慌てて腕の力を緩めて謝った。
「ごめん、痛かったね。寝られなかったんじゃないか」
「ううん、大丈夫だよ。タクマさん、まだゆっくり寝てて」
申し訳なさそうに眉根を寄せた顔も本当にかわいいと思う。かわいい唇を吸い寄せられるままそっと啄んでみる。マシュマロに似た柔らかな感触が愛おしい。もっと味わいたくて下唇を舌先でなぞれば、ハルカが擽ったそうに吐息を漏らした。
「いいよ、俺も起きるから」
そう言って微笑んだところで、突如として昨夜の記憶が脳裏にありありと蘇ってきた。
──そうだ、ミチル。
ガバリと起き上がってハルカを置き去りにしたまま寝室を飛び出し、リビングへと向かう。
まさか、出て行ってやしないだろうな。
勢いよく扉を開ければ、背もたれを寝かせた状態にしたソファベッドにちょこんと腰掛けるミチルの姿が視界に飛び込んできた。
大きな目をまん丸にして、突然入ってきた俺をまじまじと見つめている。
よかった。ちゃんといる。
怯えている様子もなく、小動物のように無防備にぺたりと座り込んでいる姿は愛嬌があってかわいらしい。緊張感が一気に緩んで、俺は安堵しながら言葉を吐き出した。
「ああ、びっくりさせてごめん。おはよう」
途端に昨夜のことを思い出したのだろう。ミチルは慌てて俯いて視線を下げ、頬を赤らめながら消え入りそうな小さな声で挨拶を返してきた。
「……おはよう、拓磨さん」
「ミチル、おはよう」
艶のある声に振り返れば、落ち着いた足取りでハルカがリビングに入ってくるところだった。俺たち二人の顔を交互に見つめてから、ハルカはゆっくりと花が開くように美しい微笑みを浮かべていく。
「朝食を作るけど、何がいい?」
まるで何事もなかったかのような言い草だった。けれど三人が出揃ったこの状況で、俺は昨夜の出来事をありありと思い出す。
『──あ、あの……ごめんなさい……』
情事を終えた直後にベッドから抜け出したハルカが寝室の扉を開けた途端、そのすぐ壁際にへたり込んでいたミチルから出た開口一番の言葉がそれだった。
いつからこうしていたんだろうか。もしかするとずっとここに座って、俺たちの様子を一部始終窺っていたのかもしれない。
そんな考えに至った俺は性的な欲求が満たされた直後だということも相まって、どうしようもない罪悪感に苛まれる。
壁の向こうにミチルがいることも、目を覚ますかもしれないということもわかっていた、なのに、どうして我慢できなかったんだろう。まさに後悔先に立たずだ。
けれど悠長に頭を抱え込んでいはいられない。どうにかしてこの状況を穏便に収めなければ。どう考えてもこっちに非があるのだから、当然ミチルを咎めるつもりもなかった。
俺はベッドから起き上がり、乱れた着衣を適当にを整えながら二人のもとへと歩み寄った。
その場にしゃがみ込んだハルカはミチルと同じ目線になり、至近距離で放心した顔をじっと見つめる。
『大丈夫だよ』
その微笑みは、情事の時の艶かしい姿からは想像もつかないぐらい穏やかで落ち着いたものだった。
ハルカは下手な言い訳をすることも、ごまかすこともしない気だ。
『僕たちは気にしないから。ミチルも気にしないで』
いやいや。悪いのは俺たちだよ、ハルカ。
そう思ったけれど、ハルカの言葉を聞いた途端ミチルの表情は明らかに和らいでいった。
続いてハルカの唇からこぼれた言葉に、俺は度肝を抜かれてしまう。
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