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act.7 Angelic Kiss 〜 the 3rd day 2

『遠慮せずに入って来たらよかったんだ。言ってくれれば、ちゃんと近くで見せてあげたのに。声だけじゃなくて、ね?』 同意を求める語尾は、紛れもなく俺に向けられたものだった。 いや。いやいやいや。俺にはそういう趣味はないよ、ハルカ。 唖然としながら、俯くミチルと宥めるハルカを交互に見ているうちに、ふと気づく。 俺がミチルぐらいの年の頃は至極健全な男子高校生で、エロいことばっかり考えてた気がする。いや、気がするじゃなくて、実際そうだった。 ミチルがこうして俺たちの行為を盗み聞きするような真似をした理由には、そういう興味本位な気持ちも含まれていたんだと思う。 けれどそれだけではなくて、そこには純粋な好奇心があったのかもしれない。 実の父親に歪んだ性欲を押しつけられ、人としての尊厳さえ踏みにじられてきたミチルは、それ以外のセックスを知らない。 もしかすると、自分の価値観と照らし合わせたかったんじゃないか。 『シャワーを浴びてくるね。ミチルは一人で寝られる? 一緒にリビングまで行こうか』 ハルカの優しい声掛けに、ミチルはこくりと首を縦に降る。汚れを知らない瞳に、素直な子なんだと改めて思う。 俺はそんなやりとりにどこか不思議なものを感じながら、言葉もなくただ立ち尽くすばかりだった。 あんなことがあっても、ハルカとミチルはこうして何事もなかったかのように朝を迎えていた。 「僕、朝ごはんは何でもいいよ。あの、手伝っても大丈夫?」 恐る恐るそう申し出るミチルに、ハルカは微笑みを湛えたまま頷いた。 「いいよ。おいで」 やはりこの二人には、どこか通じ合うものを感じる。 ここに漂うのは、しとしとと静かに降り注ぐ雨のような、穏やかで物悲しい空気だ。 忙しければ時間が経つのが早く感じられるというのはよくわかっていた。けれど、仕事を辞めると決意して出勤しなくなってから、気づいたことがある。 それは、こうしてダラダラと何をすることもなく過ごしているだけでも、徒らに時間は過ぎていくという事実だ。 平日休日を問わず同じように怠惰な日々を送ることで、俺の中では曜日の感覚がすっかりズレてしまっていた。刑事なんて休みはあってないようなものだったけど、それでも仕事をしていく上で今日が何日の何曜日かぐらいは把握しておく必要があった。それが、毎日家にいるようになってからは、そういうことを意識する必要がなくなった。 慌ただしく業務に追われてた時からは考えられないルーズな日々が流れていく。 時間は誰しもに等しく与えられてる。けれど俺が今してることは、間違いなく時間の無駄遣いだ。それでも、もうあの職場に戻ることは考えられなかった。 「ねえ。今日は、昼からちょっと出かけてみない?」 昼食の準備に取り掛かりながら、ハルカがそんなことを提言する。 「ずっと家にいるよりも、外に出た方が楽しいよ。ドライブなんていいかも。ミチルもどこかへ行きたいよね」 「僕は、別にどっちでも……」 ミチルは途端に戸惑いの表情を浮かべる。ここでミチルが、ハルカの見つけたメモに書かれていたという場所のことを言えば話は早い。 「そうだな。行きたいところはあるか」 さりげなく促してみるものの、ミチルはただかぶりを振るばかりだった。隠していることを言う気はないらしい。どうにも一筋縄ではいかないようだ。 「せっかくだから、三人で一緒に出掛けよう。食事をしたら準備しようか。楽しみだね」 ハルカはそう言って、花が咲くような微笑みを見せる。きれいでかわいい俺の恋人は、ミチルを行きたがっているところへと導こうとしている。 けれどはたしてそこに、ミチルを救う手立てはあるんだろうか。 あればいいとは思う。ひとまず、闇雲にでも動かないことには始まらない。 俺はもう頭の中に昨日ハルカから聞いた住所へと向かう道順を思い描いていた。 昼食を終えてから、手早く出掛ける準備をして三人で玄関を出た。ミチルが不安げな顔をしているのは、そこはかとない不穏な空気を本能で感じ取っているからだろう。 エレベーターに乗り込み、マンションの地下駐車場に降りて愛車へと近づいていく。 「僕、一人で後ろに乗っていい?」 後部座席に乗ろうとしたハルカに、ミチルは反対側のドアを開けながらそんなことを申し出る。それはハルカと俺に対する気遣いなのかもしれないし、俺たちに対して壁を作っているのかもしれなかった。 「いいよ」 ハルカはそう返事をして開けようとしていたドアの取っ手を離し、助手席に回り込んだ。隣のシートに滑るように乗り込んできたハルカから、仄かにあの甘い香りが漂ってくる。 軽くアクセルを踏み込んで、ゆっくりと車を発進させていく。マンションの駐車場を抜けて住宅街を縫うように走るうちに、交通量の多い幹線道路に出た。ハルカとミチルがポツポツと他愛もない会話を交わすのを、俺はただ黙ってぼんやりと聞き流していた。 ここ最近は、こうして有料道路を使うような距離のところへと行くこともなかった。 このヤマを越えれば絶対に休暇をもらって羽を伸ばそう。そう心に決めながら何ヶ月も休みを取らず必死に事件に取り組んでいた日々が、遠い昔のことのように感じられる。 もうあの職場に戻ることもないのだから、俺は何にも縛られない自由の身になったはずだった。行こうと思えばどこへでも行けるのに、どういうわけか辞表を出してからはそんな気にもなれず、近場でふらふらしているばかりだ。 適当に呑みに行って、女を引っ掛けて、好きでもないパチンコなんか打ってみたりして。時間を持て余しながら送るのは、絵に描いたような自堕落な生活。 蓄えはそれなりにあるが、そろそろ就職活動でもしなければいけない。それでも、この年で手に職もなければ何の資格もない。俺にできる仕事なんてあるんだろうか。誰か知り合いに頼るか? いや、こんな形でみっともなくドロップアウトしておきながら、どの面を下げてそんなことができるんだ。 仕事を選んじゃいられないのは、わかってるつもりだ。けれど刑事を辞めた俺は、一体何がしたくて、何ができるんだろう。 その答えを、まだ見出せないでいる。

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