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act.7 Angelic Kiss 〜 the 3rd day 7
自責の念がこもる溜息混じりの言葉に、俺は仕事で出会ってきた女たちのことを思い出す。
『育て方を間違えた』
それは、我が子の悪行に尽くす手立てもなく途方に暮れる母親たちが口を揃えて言う台詞だった。
「私は早くに主人を亡くしてから、女手ひとつであの子を育ててきたんです。母ひとり子ひとりだけど、血の繋がりがあるから何とかやっていける。初めの頃は、そう信じていました」
深い溜息と共に、闇に閉ざされていた過去が少しずつ吐き出されていく。
「中学校に入った頃から、達弥はいつの間にか素行の悪い友達と付き合うようになりました。あの子のことで、私はよく学校や警察に呼ばれました。その理由も、誰かを傷つけたり、他人のものを盗んだりというようなこと。罪を犯してたくさんの人に迷惑を掛けているのに、いくら叱っても反省の素振りは見えませんでした。反抗されて、時には手をあげられることもありました。あの子の素行はだんだんひどくなる一方で、警察に捕まる度に私はあちこちに頭を下げてきました。家庭裁判所、鑑別所、少年院………仕事の合間を縫ってそういうところに繰り返し足を運ぶうちに、私も疲れてしまったんです。我が子の存在が辛くて仕方がなくて。だから、この子は自分の子じゃない。そう思い込むことにしました。私は親の責任を放棄して、子育てから逃げたんです」
俺は仕事で非行少年を取り扱ってきて、子どもと向き合うことに疲れ果てた親をたくさん見ている。
確かに親が親なら子も子だというケースも多い。だけど、そうではないこともある。
育てた親の責任はけっして小さくはないものの、育て方が人格の全てを決定するというわけではない。どうしてこのきちんとした親からこの子がと思うこともある。何とか子どもを更生させようと必死になっているにも関わらず報われない親を見る度に、本当に不憫だと思う。
どうにかしたいと苦しんだ末、最終的に我が子を見離してしまう親は珍しくはない。施設に送り込んでほしいと親から懇願されたことも一度や二度ではない。互いのためにそうせざるを得ない場合もある。子どもと向き合う過程で生まれる葛藤や苦悩は、真面目な人ほど大きくなっていく。
人格の決定要因は遺伝と環境の相互作用で、どの要因がどんな形で影響するかは誰にもわからないのだという。だとすれば、子どもの行いを全て親のせいにするのはあまりにも酷だ。
そして、ミチルがあんなひどいことをする父親に育てられてここまで素直に育ったことは、奇跡に近い幸運だったのかもしれないとも思う。
「達弥は十七歳のときに家を出てから音信不通になり、どこにいるかもわかりませんでした。けれど、三年ほど経って突然ふらりとここへ帰ってきたんです」
そう言って、彼女はミチルに真剣な眼差しを向ける。
「あなたのお母さんと、まだ赤ちゃんだったあなたを連れてね」
ミチルの目が大きく見開かれたのは、今までその話を誰からも聞いたことがなかったからだろう。
「達弥は私に話してくれました。家を出てから入籍して家族が増えて、今は真面目に暮らしていること。けれど勤め先から突然解雇されて、生活に困っていること。少しでいいからお金を借してほしいと、あの子は私に頭を下げたんです。何の音沙汰もなかったのに突然お嫁さんや赤ちゃんを連れて帰ってきたことには、正直戸惑いもありました。それでも、家庭を持ったということはこれからの人生をやり直す気があるということなんでしょう。元はと言えば、達弥が出て行ったのは私があの子を見捨てたせいです。もう二度と会うことはないと諦めていました。それが、きちんと更生して帰ってきてくれた。ましてや、孫の顔を見られるなんて思ってもいなかったんです。お腹を痛めて産んだ息子にいざ頼られればやはり愛おしく思えて、断ることは考えられませんでした。私を頼ってくれたことが嬉しくて、その時家にあったお金を全部渡しました。あの子たちはとても嬉しそうで、本当によかったと心から思いました。これで少しは罪滅ぼしができた気がしたんです」
その後の流れは、俺の予想どおりだった。仕事を探していると言いながら、息子夫婦はいつまで経っても繰り返し孫を連れて来ては金の無心をする。最初は絆されていた母親も、やがてはその目的に気づいた。
「私も馬鹿でした。ようやくおかしいなと思うようになったのは、定期預金を解約してそのほとんどを切り崩した頃だったんです。相談した信頼できる友人に、私がしていることはあの子のためにはならないと説得されて、やっと目が覚めました。私が甘やかしてお金を渡す限り、あの子は自立しようとはしない。だから、私は心を鬼にして決意しました。あなたたちとは金輪際、縁を切らせてもらう。そう告げると、達弥の態度は豹変しました。もう二度と来ない、子どもにもけっして会わせないと捨て台詞を残して、あの子は再び姿を消しました。……でも」
そこで言葉を区切って、その人はおもむろに立ち上がる。
部屋の隅に置かれた洋箪笥まで歩み寄り、一番上の引き出しを開けた手が取ったものは写真立てだった。
固唾を飲んで見守る俺たちの前に、それが差し出される。
ガラスの中に収められた写真は、やや古びたものだった。そこに映るのは、今よりも若いミチルの祖母がにこやかに笑う姿と、その胸に抱かれたかわいらしい赤ん坊。
「私も未練がましくて。どうしてもこれを捨てることができなかった。ミチルくん、この赤ちゃんがあなたよ」
脳裏にふと、二十年以上も前の出来事が思い浮かぶ。
兄ちゃんの家で、生まれて間もない女の子を初めて抱かせてもらったときの記憶だ。
小さな身体から仄かに香る、甘く懐かしい匂い。あの日俺がこの腕に抱いていたのは、希望そのものだった。
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