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act.7 Angelic Kiss 〜 the 3rd day 8

どの赤ん坊もそうだと俺は思う。生まれた時には皆等しく未来が拓かれているんだ。それは剥奪されるべきではないはずなのに、生きていくうちに誰しもがいつの間にか幾つもの分岐点を経て、時には不可効力で理不尽な境遇に身を委ねざるを得ない。 残念ながらミチルの置かれた環境は劣悪で、勿論それは本人の望まざるものだった。それでもミチルは勇気を出して必死に逃げてきた。 この子にはちゃんと幸せになる権利はある。この世に生を受けた時から、ずっと。 「もう会うことはないと思っていたのよ。それでも、あなたのことはどうしても気掛かりだったわ。本当に、大きくなったわね」 ミチルの祖母はそう言って、潤んだ瞳で真っ直ぐに成長した孫を見る。 「ねえ、ミチルくん。あの子はあなたに何をしたの?」 顔立ちにまだ幼さを強く残した少年は、一心に注がれる眼差しを逸らすことなく受け止めて、しっかりと見つめ返していた。 俺がミチルと過ごした時間はわずかで、ほんの一握りのことしか知らない。それでも俺は無性に嬉しかった。 母親は幼い頃に家を出て行ったきりで、父親は歪んだ性欲をぶつけてくる。そんなミチルが、今ようやく肉親の愛情を受けていることに、強く胸を揺さぶられる。 ミチル、その手を伸ばせ。この人なら、きっとお前の手を掴んでくれるから。 「……おばあちゃん」 か細い声で、ミチルは初めて目の前にいる人をそう呼んで縋るような眼差しを向ける。 「僕、お父さんに」 けれど、そこで言葉を詰まらせてしまう。小さく肩を震わせながら、ミチルは唇を噛み締めて皆の視線から逃れるように俯いてしまった。 この子のことだ。父親からされてきたことを言えないのは、自分のことではなく祖母のことを気遣っているからかも知れない。 確かにミチルの父親が犯した罪を知らせることは酷なことだ。縁を切ったとは言うものの、血の繋がった息子のしたことは彼女にとってけっして軽いものではない。 でも、それはこの人が今受け入れなければいけない真実なんだと俺は思う。今までのように知らないまま生きていくこともできるだろう。けれど、それでは駄目なんだ。 この壁を越えなければ、ミチルは父親の呪縛から逃れられない。 視界の片隅で、ハルカの手がゆっくりと動いた。その掌は膝の上で握りしめられた小さな拳を包み込み、そっと祈りを送る。 ──大丈夫だよ、ミチル。 桜色の唇から微かに紡がれる魔法の言葉が、ミチルの背中を優しく押した。 考え込んでいたミチルはやがて決意したように顔を上げて、悲愴な表情をしながら今度こそ迷うことなく真実を告げる。 「僕はお父さんに、ずっといやらしいことをされてる。それが我慢できなくて、逃げてきたんだ……」 降りてきたのは、息苦しくなるほど重い沈黙だった。ミチルの祖母は目を見開き、そしてゆっくりと溜息をつくように言葉を吐き出した。 「……わかりました」 父親から逃げてきたというこの子と向き合うことになった時から、もう何かしらの覚悟はできていたのだろう。戸惑いで揺らめきながらもその瞳には強い光が宿っていた。 「ごめんなさいね。私があの子をちゃんと育てられなかったばかりに、あなたを酷い目に遭わせてしまった。本当に、辛い思いをしたわね」 慈悲深い労わりの言葉に、ミチルの目がみるみると潤み出す。健気にかぶりを振りながら、はたはたと大粒の涙をこぼしていった。 ミチルの祖母は涙に濡れた顔を覗き込みながら、優しく声を掛ける。 「あの子がそんなことをするようになったのは、全て私の責任。罪滅ぼしにもならないけれど、あなたのためにできることは何でもするわ」 おい、聞いてるか。ミチル、お前は今大切なものを手にしようとしているんだ。 それは、ずっと不憫な人生を送ってきたお前が当たり前に受け取っていい幸福の兆しだ。 だから俺は、微力ながらその後押しをしてやる。それはここへ向かう途中からずっと考えていた理想のプランだった。 「この子が大人になるまで、あと四年あります。それまで傍にいてあげられますか」 そう問い掛ければ、ミチルの祖母はうっすらと涙を湛えた瞳で真っ直ぐに俺を見て、ゆっくりと頷いた。 「できます」 「じゃあ、この子の親権をあなたに移しましょう」 俺はそう言い切って息をつく。もう大丈夫だ。ミチルの環境を変える手順を、ちゃんと踏んでやれる。 「簡単にそんなことができますか? 何よりもまず、達弥が許さないんじゃないかしら」 俺の提言が突拍子もないものに聞こえたんだろう。訝しげにそう言うミチルの祖母に、俺は懇々と説明していく。 「この子は自分の父親から性的虐待を受けている。虐待の事実を、児童相談所に通告します。児童相談所が家庭裁判所に実父の親権喪失の申し立てをすれば、法律上において実父の親権を剥奪することができる。そうすれば、父親からあなたに親権を移せます」 三人がきょとんとした顔で俺の顔を見ている。もしかすると児相の職員だとでも思われているのかもしれない。 いや、俺はただの元刑事で、今や何の権限も持たない無職の身に過ぎないんだけど。 それでも、これからどうすればいいかを指南することぐらいはできる。 「俺には何もできないけど、警察や児相に知り合いがいて、その橋渡しぐらいならできます」 そう口にしたとき、ハルカの微笑みが視界の隅に映った。そんなに嬉しそうなのは、俺が職場に戻ることを期待しているからかもしれない。だとすればそれは大きな間違いで、俺にはそのつもりはないんだけどな。

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