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act.7 Angelic Kiss 〜 the 3rd day 9

けれどミチルは泣きながらぽつりと言葉を漏らす。 「駄目だよ。迷惑を掛けると思う……」 「お前、父親のところに戻りたいのか」 この後に及んでそんなことを言うミチルに、きつい言葉がつい口を突いて出る。子どもらしからぬ気遣いの仕方は、父親の顔色を窺いながら生きてきたことで培われた悲しい性なのかもしれない。 「ミチルくん、大丈夫よ」 それでも、ミチルの祖母は優しかった。離れていた長い時間を超えて、二つの鈴が共鳴し合うように穏やかな親愛の空気が流れている。 長い間会えなかった孫へとそっと腕を伸ばし、彼女は涙に濡れた頬に掌で触れた。 「一人でよく頑張ってきたわね」 そう告げられた途端、ミチルの目から新しい涙が次々にこぼれ落ちる。差し出された手を取り、顔を歪めながら何度も頷いて、やがて小さな子どものように激しく泣きじゃくり出した。 ああよかった、と安堵の気持ちで満たされた反面、俺の中には新たな心配事が頭をもたげ始めていた。 ミチルの父親は、歪んだ性欲をミチルにぶつけ続けてきた。その関係に相当執着しているのは間違いないし、内に抱く強い衝動はミチルが逃げ出したからと言って急に立ち消えることはない。 いずれはミチルを追ってここまで辿り着くだろう。 それを防ぐ方法を、俺はひとつしか思いつかない。 兄夫婦が結婚してから五年が経とうとする頃だった。 受験を終えて第一志望校に合格した俺は、晴れて高校生になっていた。 俺の入った高校は幼稚園から大学まで揃った私立の共学校で、在校中に落ちこぼれることがなければエスカレーター式に同じ敷地内の系列大学に進学することができた。 必死に勉強する必要がないから生徒は伸び伸びしていて、学校行事にも力が入っている。そんな感じの、今思い出してもいい校風の学校だった。 入学式を済ませてしばらく経てばクラスや学校の雰囲気にも慣れてきて、俺は楽しい学校生活をしっかりと満喫していた。一緒に過ごせる友達ができて、クラスでも目立つかわいい女の子と仲良くなり、好きだと口にすれば早速付き合うことになった。とにかく俺は新たな人間関係の中ですっかり浮足立っていた。 今でも変わってないけど、当時から俺は調子がよくていい加減だったから、女にはそれなりにモテた。真面目で誠実な男より適当でおちゃらけた男の方が目を引くというのは、得てしてそういうものなのかもしれない。俺が女だったら、俺みたいな男はごめんだなと思うけどな。 そうして俺は、新しい環境にも馴染んで毎日を楽しく謳歌していたんだ。 それが、一学期の中間考査が終わった頃のことだ。 そこそこの学校生活を大いに楽しんでいた俺の前に、信じられない出来事が起こった。まさに晴天の霹靂だ。 その日の放課後は、学校で系列校の教職員を集めた研究授業が行われていた。どうしてそんなことを憶えているかというと、俺は運悪く日直にあたっていて、居残りでその設営を随分と手伝わされたからだ。 研究授業があるから、その日はどこの部活も休みになっていた。設営を終えて一人で家へと帰ろうとしていると、校門の前で背後から声を掛けられた。 『拓磨くん?』 聞き覚えのある響きに、誰の声なのかすぐにわかった。だからこそ、耳を疑った。 まさか、こんなところにいるはずがない。 意を決して勢いよく振り返れば、天使みたいにきれいな顔が目に飛び込んできた。澄んだ瞳で俺を見つめるのは、忘れることのできない懐かしい人だった。 『やっぱり、拓磨くんだ。久しぶりね』 『朋ちゃん……どうして』 もう、本当にびっくりしたよ。 最後に会って五年程経ってから、羽山朋未は突如俺の目の前に現われたんだ。 初恋の相手は、年を重ねて少女から成人した女性へと変貌を遂げていた。大人びているけれど、まだあどけなさも残している。匂い立つような色気を纏い、更に魅力のある人になっていた。 二十歳になった彼女は眩しいぐらいにきれいで、信じられない再会に俺は我を忘れて見惚れてしまっていた。突然のことに心臓が全力疾走した後みたいにバクバクと鳴って、まるで収まる気配はなかった。 『大きくなったね。身長、追い越されちゃったな』 透き通るような声でそう言って、天使の微笑みを浮かべる。 なんてきれいなんだろう。まじまじと見つめれば、彼女は恥ずかしそうに桜色の唇を開いた。 『そんなにびっくりした?』 『ああ、うん』 しどろもどろに答えると、またクスクスと笑う。 『私もよ。こんなところで拓磨くんに会えるなんて思わなかった。嬉しいな』 順調に成長期を迎えた俺は、今や彼女を見下ろすほどに背が伸びていた。けれど彼女があまりにも美しい大人の女性になっていたから、五年前にも増して自分のガキっぽさを思い知らされる気分だった。 『せっかくだし、もし時間があるなら少し話さない? どこかに入ろうか』 思いもかけないその誘いに乗らない理由は何ひとつない。俺は連れられるまま、夢見心地で近くのカフェへと入っていった。 並んで歩いていても、カフェの店内に入っても、皆の視線が彼女に釘付けだった。それもそのはずで、彼女は誰しもの目を惹きつけずにはいられない可憐さと独特の煌めきを放っていた。 二人掛けのテーブル席に向かい合って腰掛けた俺は、何を頼めばいいのかわからず彼女の真似をしてアイスカフェオレを頼んだ。まるでデートみたいだと意識した途端、気持ちがふわふわと舞い上がって、また鼓動が激しくなった。

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