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act.7 Angelic Kiss 〜 the 3rd day 10

彼女はそんな俺の緊張を解すように少しずつ自分の近況を話し始めた。この五年の間に、幼稚園の先生になりたいと思うようになったこと。その夢を叶えるために、今は大学で勉強していること。 穏やかなひとときが、会えなかった時間を優しく埋めていく。 会話を交わすうちに、俺はようやくこれが幻ではないことを実感できるようになってきた。 そうして俺は、彼女がうちの高校と同じ系列の大学に在籍していることを知った。今は幼児教育学科の三年生で、しかもこの近所に部屋を借りて一人暮らしをしているというんだ。 『私たち、同じところに通ってたんだ。こんなことってあるのね』 そう言って、朋ちゃんは清らかな笑みを浮かべる。 大好きでずっと憧れていた人が、すぐ傍にいる。もう当分は会うこともないと諦めていたのに、俺たちは偶然同じ学校に通っていたというわけだ。 運命だと思った。これは、神様が与えてくれた奇跡だ。 だからと言って俺には彼女に手を出す勇気はなかった。それでも、少しでいいから近づきたかった。 やっと掴むことができた細い糸の先を、俺は必死に手繰り寄せる。 『朋ちゃん。今度、家に遊びに来ればいいよ。うちの親も絶対喜ぶからさ』 どぎまぎしながら俺はなけなしの勇気を出して、なるべく自然に聞こえることを願いつつそう誘った。 『本当? お伺いするの、ご迷惑じゃない?』 遠慮がちにそう言って、大きな目をほんの少し細めて笑う。嬉しそうにはにかむ朋ちゃんは俺よりもずっと年上なのに本当にかわいく見えた。 『迷惑だなんてとんでもない、大歓迎だよ』 誰がって、俺がなんだけどね。 心の中でそう付け加えれば、朋ちゃんはちょっと考えてから口を開いた。 『うん、じゃあ今度お邪魔しようかな』 『いつでもいいから、朋ちゃんの時間がある時においでよ。そうだ。連絡先、訊いてもいい?』 次に彼女と会う約束ができたことに、俺は完全に舞い上がってしまっていた。 さりげなさを装った俺は、ドキドキしながら彼女が一人暮らしをしている家の電話番号を教えてもらい、鞄に入っていたノートの隅にしっかりと書き留めた。 こうして、五年前に途絶えていた俺の初恋は再び動き始めたんだ。 止まっていた時間を取り戻すかのように、俺は再び朋ちゃんに惹かれていった。 初めて家に電話を架けたときは緊張して震えたけど、それを何度も繰り返すうちに少しずつ慣れてきて、うまく会話を繋ぐことができるようになった。彼女と話す時間は、俺にとって何よりも大切で楽しいものだった。 だから、こんなにきれいな朋ちゃんから、今は彼氏がいないと受話器越しに聞いたときは、飛び上がりそうなほど嬉しかった。 もしかしたら俺に気を遣って嘘をついているだけかもしれないけど、それでも相手はいないという彼女の言葉を俺は信じた。その言葉は再燃した恋心を更に膨らませるのに十分なものだった。 だけど俺は、彼女と付き合いたいとかそういうことを考えていたわけじゃない。そもそも自分が恋愛対象になれるとも思っていなかった。 高校一年生の俺にとって、大人の彼女は手の届かない高嶺の花だった。実際、俺にはその時同級生の彼女がいて、別れることなく交際を続けていた。 今考えても本当に最低だと思うけど、付き合っている彼女がいるもかかわらず、朋ちゃんは俺の中で比べるまでもない存在だった。彼女は神聖な不可侵領域にいる、俺の憧れの人なんだ。 だから俺は朋ちゃんのことを考えながら、交際相手を利用して適当に性欲を発散しようと独りよがりなセックスばかりをしていた。当然そんな関係は長く続くわけがない。だけどうまくいかずに別れても、すぐにまた次の相手は現われた。その繰り返しで、結局誰と付き合っても俺がすることは同じだった。 甘い砂糖菓子みたいにかわいくて、ちょっと背伸びをしたがる同じ年頃の女の子のことは、けっして嫌いじゃない。だけど、やっぱり物足りないんだ。 俺の頭の中はもうどうしようもなく朋ちゃんのことでいっぱいだった。 何度か朋ちゃんの家に電話を掛けて、ようやく舞い上がらずに話せるようになってきた頃、俺は改めて彼女を自分の家に誘って先みた。 『本当にいいの?』 『うん、もちろんだよ。朋ちゃんのことはもう母さん達にも言ってるからさ』 だから、来てもらえたら嬉しいな。 恐る恐るそう言えば、受話器越しに明るい声が聞こえてきた。 『じゃあ、次の週末はどうかな』 『俺は大丈夫だよ。母さんにも訊いてみる』 『うん、お願いね。楽しみにしてる』 朋ちゃんが喜んでいることは伝わってきたし、俺も好きな人ともう一度会う口実ができたことで本当に天にも昇る気持ちだった。 そうして朋ちゃんが我が家に来たのは、よく晴れた日曜日のことだった。親父や母さんも、彼女が来るのをとても楽しみに待っていた。 『まあ。本当に、ますますきれいになって』 迎えた玄関先で、母さんは久し振りに会う彼女を見て目を丸くしていた。 『そんなことないです』 『拓磨が浮かれるのも無理ないわね』 一言多いよ、と母さんを肘で軽く小突きながら俺は喜び勇んで朋ちゃんを家に招き入れた。 皆でダイニングテーブルを囲みながら近況を語り合い、思い出話に花を咲かせるうちに、俺はある既視感を覚えていた。 手の届かない人だった朋ちゃんがこの家にいることがとても不思議で、だけどまるでずっと昔からこうしているかのような錯覚がしたんだ。

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