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act.7 Angelic Kiss 〜 the 4th day 2
そう言いながらハルカはそっと瞼を閉じて細い身体を抱き直す。愛おしいそのぬくもりを記憶に刻み込もうとするかのように、しっかりと。
まるで血の繋がった兄弟の、今生の別れのようだ。
「また会えるよね」
きっと俺と同じことを感じたのだろう。確かめるように不安げに尋ねるミチルの切実な声に、ハルカは薄く目を開ける。
「ねえ、また会える?」
うずめていた肩から顔を離して、ミチルは同じ言葉を繰り返しながらハルカを見つめる。大きな目から溢れ出た涙が、キラキラと輝きながら頬を伝い落ちていった。その雫を指先でそっと拭って、ハルカは真摯な瞳でただ見つめ返す。やがて桜色の唇から声を絞り出すようにして告げた。
「……しばらくは、無理だと思う」
ぽつりとそうこぼして、またゆっくりと目を閉じる。次に美しい瞳が覗いた時、そこには何かを決意したような強い光が宿っていた。
「でも、いつか必ず。約束するよ」
ハルカと別れてから、ミチルと俺はマンションの地下駐車場へ降りて車に乗り込んだ。
リアシートにデイパックを積んで助手席に腰掛けたミチルは、どことなくそわそわと落ち着かない様子だった。あからさまに緊張した面持ちをしているから、つい苦笑する。
まあ、俺も同じぐらい緊張してるんだけどな。
「ちょっと、電話していいか」
駐車場を出てからマンション前の路肩に車をとめて、携帯電話を取り出す。履歴を辿って表示させたのは見慣れた名前と番号で、ディスプレイに浮かぶ数字の羅列に自然と溜息がこぼれた。
もうここに架けることはないと思ってたのにな。
深呼吸をしてから勇気を出して通話ボタンを押す。ミチルの決断に比べれば、なんてことはない。そうだ、この子の背負うものを思えば、俺は何だってできる。
呼出音はワンコールしか聞けなかった。心の準備もへったくれもない。
「……係長」
第一声を発した途端、ドスの効いた低い声が鼓膜をビリビリと刺激する。
「忙しいんだよ。早く出勤して仕事しろ、馬鹿」
言いたいことだけを口にして、こっちの話す隙も与えず切ってしまう。ツーツーと耳元で鳴り響く虚しい音は、それでもなぜか強張った俺の心を少し解してくれた。
そうか。俺の辞表は、一応まだ保留になってるわけだ。
「何とかなりそうだ。行こうか」
再び車を発進させて、目的の場所へと向かう。何とかなりそうなんて甘いことを言ってちゃ駄目だ。必ず何とかしてみせる。俺の使命感なんて闇雲で未熟なものだけど、今はそれを支えに行動したかった。
カーステレオから車内に流れる曲が、雨垂れのようなピアノのメロディを奏でる。そこに繊細なストリングスが被さって、美しい調べを刻み出した。
きれいなバラードに耳を澄ませていると、ハルカと出逢った雨降る夜を想い出す。今別れたばかりだというのに、もう会いたくて仕方ない。
「拓磨さん」
「うん?」
不意に隣から呼び掛けられて、意識が引き戻される。フロントガラスの向こうに広がる見慣れた景色から左側に視線を移せば、そこには困惑したような表情をした少年がいた。だけど眼差しは初めて会った時よりもずっと強い光を湛えている。
これが今、俺の向き合わなければならない現実だ。
「あの、僕ね。拓磨さんに……」
その先を口ごもるミチルの言わんとしていることが、俺にはもうわかっていた。
前方に見えた赤いランプにゆっくりとブレーキペダルを踏みしめる。今は止まらなければいけないけど、シグナルはずっとこの色というわけじゃない。すぐに青へと変わる。どんなことだってちゃんと廻るようになっているんだ。
助手席に顔を向けて、俺は不安げな顔をした少年の名を呼んだ。
「ミチル。話があるんだけど、いいか」
俺の言葉に縋るような瞳でじっと見つめてくる。捨てられた小動物みたいだなと、つい苦笑した。
確かにその表現は間違っちゃいない。そしてお前を拾ったのは、ハルカと俺だ。
「俺がお前のことを担当するよ」
「……え?」
大きな目がこぼれ落ちそうなほどに見開かれる。
「これは、俺の事件だ」
畳み掛けるようにそう続ければ、ミチルがぽつりと呟くように言う。
「本当に?」
いつの間にかランプの色は赤から青に変わっていた。俺は頷いて、車の流れに沿うようにアクセルを踏み込んでいく。
「だって、辞めるって言ってたのに。大丈夫なの?」
「ああ、仕事は辞めるつもりだった。本当のことを言うと、もうすっかり辞めた気でいたし、続けることはこれっぽっちも考えてなかった。だけど、お前のことを誰かに任せっきりにしたくないんだ。職場の人たちに謝って、土下座してでも復帰させてくれって頼み込むよ」
自分勝手に失望して中途半端に仕事を放り投げて、俺は目の前の現実から逃げ出していた。強引に辞表を出したきり、二十日間近くも無断欠勤している。刑事としてというよりも、まず社会人としてあるまじき姿で、このまま職場に行ったところでどの面下げて出てくるんだと罵倒されることは覚悟の上だ。
もう警察組織には戻らないつもりだった。でも、ミチルのことを他の奴らに託すだけじゃ駄目だ。俺がこの手で、きちんと面倒を見てやりたいと思った。
「タクマさん、いいの? 大丈夫?」
「いいんだ。俺がそうしたいんだから。お前は余計な心配をするなよ」
辞めるのはいつだって辞められる。だったらミチルの件が落ち着いてからでもいい。その時まで、こんな俺にもまだやれることがあるだろう。
いや、俺にしかできないことだってあるはずだ。
「よかった。タクマさんが一緒だったら、頑張れる気がする」
そう言ってミチルは嬉しそうにはにかんだ。屈託のない笑顔に、つられて顔が綻ぶ。
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