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act.7 Angelic Kiss 〜 the 4th day 3

うん。いい表情をするようになったな。 いつかお前が心から笑えるように、俺は今自分にできることを精一杯したいんだ。 「ミチルはもう十分頑張ってきたよ。でも、これからもう少しやらなきゃいけないことがある。それはすごく大変なことだけど、お前自身が幸せになるために必要なことだ。だからお前のおばあちゃんも、俺も、これからお前に関わる人たちも、みんながお前をサポートして全力で守るんだ。もう一人で頑張る必要はない。わかるか」 俺が噛み砕きながら口にした言葉にミチルは頷いて、じっと見つめてくる。 「拓磨さんってかっこいいね。かっこいい大人だと思う」 何を言い出すんだ。尊敬されるようなことは何もしていないから、俺は慌てて否定する。 「かっこ悪いよ。いい歳をしてふらふらして、辞表を出してきた職場にこれから頭を下げに行くんだ。みっともないったらないね」 「でも、僕は拓磨さんみたいな人になりたいな」 ぽつりとそうこぼして、ミチルは窓の外をぼんやりと眺める。 ミチルの周りには、手本になるような大人がいなかったのかもしれない。だから、どこへ手を差し伸ばせばいいかもわからなかったんだろうか。そう思うとまた胸が痛んだ。 それでも俺は、ミチルと一緒にこれからすべきことを見つけられたことが嬉しかった。 朝の喧騒に包まれた幹線道路を走りながら、窓を少し開けてみる。車内に入ってきた風を吸い込んで吐き出すと、身体の中に燻っていたわだかまりがするりと抜けていく気がした。 これから無断欠勤を続けてきた職場に戻るというのに、俺は妙に清々しい気分だった。 自動ドアの玄関を通り抜けて中へと入った途端、カウンターの向こう側に見知った顔が見えた。視線とざわめきが忙しなく飛び交う。 久しぶりに出勤したんだから、無理もないか。 小さく溜息をついて後ろを振り返れば、ミチルがオロオロしながら俯いて俺のあとをついてきていた。 「拓磨さん」 「ほら、おいで」 不安げなミチルの細い腕を引いて、軽く会釈しながら公かいを通り抜ける。二人で奥のエレベーターに乗り込んで、三階のボタンを押してから深く息を吐いた。 俺のしたことは社会人としてやっちゃいけないことだ。戻ってきたからと言って、受け入れてもらえるかはわからない。 ここからが勝負だな。 「拓磨さん、頑張って」 ミチルにも俺の置かれている立場は何となくわかるんだろう。大きな瞳で一心に見つめながら励ましの言葉を掛けられて、自分が情けなく思えた。 俺がお前を助けてやりたいと思ってるのに、反対に背中を押されてちゃ世話がないな。 苦笑しながら、俺はミチルの頭をくしゃりと撫で上げる。 「心配するなって。大丈夫だよ」 きっとね。 心の中でそう付け足して、開いた扉の外へと足を踏み出す。 廊下を歩けば、すれ違う署員が驚いた顔をして振り返る。『生活安全課』とプレートの付いた扉の前で立ち止まり、深呼吸をしてからドアノブを回して押し開けた。 見慣れた光景のはずなのに、俺の立っている場所からは切り離された異世界のように感じられる。 雑然とした部屋は、洒落た刑事ドラマとは程遠い有様だ。目に入るデスクの上にはファイルや書類が所狭しと積まれている。俺も仕事が立て込んでいる時には机で作業ができなくなって、よく応接室にパソコンを持ち込んで書類を作っていたものだった。 部屋に足を踏み入れた途端、デスクから次々と顔が上がる。 言葉もなくこちらに視線が向けられる。見知った顔ばかりだけど、どうしてお前が今ここにいるんだと言わんばかりの眼差しにひどく居心地が悪い。 「……あの」 まずは謝罪しなければならないと口を開きかけたその時、大柄の男が勢いよくこちらへと近づいてきた。 「三崎さん!」 満面の笑みを浮かべながら、躊躇いもなく駆け寄ってくる。まるで長く留守番をしていた犬みたいだ。ブンブンと激しく振られた尻尾が目に見えるようだった。 「待ってましたよ。やっと来てくれたんですね」 両肩を掴む手には力が篭っていて、デカい図体に見合った腕力だなと感心する。 かつて俺とペアを組んでいた後輩の山川大知は、相変わらずの天真爛漫っぷりだった。こんな状況でも自分の保身を考えることはない。周りの目を気にすることもなく俺に対して普段どおりに振る舞えるんだから、相当肝が座っていると思う。振り払おうとしても、お構いなしに懐いてくる。 「馳係長! 三崎さんですよ、三崎さん!」 向かって左手の奥。他より一回り大きなデスクに掛けている強面の男が、ようやく顔を上げて俺に視線を向ける。俺が入ってきたことはわかっているはずで、あえて知らない振りを決め込んでいたんだろう。眼つきは鋭く、唇は真一文字に結ばれていている。 当然だ。ノコノコと戻ってきていい顔をされるとは、ハナから思っちゃいない。 「え、この子は? まさか三崎さんの隠し子じゃないですよね」 俺の肩を掴んでいた手を離して、山川はこのタイミングでそんな冗談めかしたことを言いながら俺の後ろを覗き込む。バカ、と心の中で呟きながら、俺は心配そうな顔をするミチルの頭にポンと掌を置いた。 「ちょっと、ここで待っててくれ」 そう言い残して、俺は直属の上司の元へと歩み寄る。デスクの脇に来て立ち止まれば、忌々しげにこちらを見上げるその瞳は俺を射竦めようとするかのようにギラリと強い光を放った。 罪を犯した者がつく嘘や、口先ばかりの反省の言葉を、決して許してこなかった刑事の目だ。 「係長……すみませんでした」 他人に頭を下げることは苦手だ。それでも、今回ばかりは自分が一方的に悪いことはよくわかっていた。 「何しに来たんだ」 低く太い声が室内に響いて、静まり返った部屋の中に緊張感が走り抜ける。沈黙が耳に痛い。

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