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act.7 Angelic Kiss 〜 the 4th day 4
「お前を捜査から外して遺族支援班に行かせたのは俺だ。それを何もかも放っぽり出して、抜け抜けと休みやがって。あの事件の後処理や日々の常務を、一体誰が分担してやってきたと思ってるんだ。俺と山川だよ。こっちでお前の抜けた穴を埋めてきたんだ」
言われていることの全てが耳に痛かった。俺がいた遺族支援班にも誰かが派遣されているはずだ。恐らくこの部屋にいない後輩が、代替要員となったに違いない。
それでも仕事は回っているんだろう。もうここは俺が戻れる場所じゃない。
改めてそう実感してしまえば、これ以上謝罪の言葉を重ねて戻りたいと訴えるわけにはいかなかった。頭を下げたまま、本来の目的をもう一度考える。
ミチルのことだけは、ちゃんと託しておかなければならない。
「係長……俺が今日、ここへ来たのは」
そう事情を説明しようとすれば、低い声がそれを遮った。
「もう一生分は休んだな。休みなしでこき使ってやるから、覚悟しとけよ」
言いかけた言葉を呑み込んでガバリと顔を上げる。その強面がどんな表情をしているかを確認するよりも早く、馳係長は立ち上がって俺の背中を強く押していた。そのまま課長のデスクまで連れて行かれる。
課長の対面で後頭部をしっかりと掴まれ、強引に下へと押さえつけられた。問答無用のすごい力だ。昔は警視庁の柔道大会で何度も入賞したと聞いたことがある。馳係長と稽古で一度乱取りを組んだときに、まるで敵わなかったことを思い出した。
掴まれた頭がぎりぎりと痛くても、文句のひとつも言うことができなかった。馳係長も俺の隣で深々と頭を下げていたからだ。
きっと俺に対して思っていることは、たくさんあるはずだった。
この人は数多の現場を踏んで、否認する被疑者は大人も子どもも軒並み口を割らせてきた刑事だ。だからこそ、プライドは人一倍高い。
それなのに、みんなが見ている前で一緒に謝ってくれている。俺がきちんとここに戻って来られるように。
「申し訳ありませんでした」
俺の声に馳係長の声が被さった。聞こえてきた同じ謝罪の言葉に胸が熱くなる。
どうしてそこまでするんだよ。俺は本気で辞めるつもりだったのに。下を向いているせいで、迂闊にも涙腺が緩みそうになった。
「三崎。もう大丈夫か」
頭上から聞こえる声は落ち着いていて穏やかだった。
「自分には何もできない。だから辞めるつもりでした。でも、また仕事がしたいと思えるようになったんです。だから、恥を忍んで戻ってきました」
ゆっくりと顔を上げて、課長と目と合わせる。眼力は涼やかで強い。俺が戻ってくることを怒っているわけでも、喜んでいるわけでもない。ただ、見極めようとしているんだろう。
「今回だけだ。穴を開けた分を、仕事で取り返してみろ」
「……はい。ありがとうございます」
ひとまず許されたことに安堵の溜息をついた途端、山川の素っ頓狂な声が聞こえてきた。
「あれ? この子、風間未散くんじゃない?」
後ろを振り返れば、山川が大きな身体を屈ませてミチルの顔をまじまじと覗き込んでいた。怯えた顔でミチルは一歩二歩と後退りをする。
「うん、やっぱり手配の写真と同じ子だね。君のお父さんが一昨日、ここに行方不明の届け出に来てたんだ。お父さん、随分心配してたよ」
ミチルの顔が、みるみる青褪めていく。
家を出たミチルを父親が捜している。それは俺にとって想定内のことだった。そのために、この場所に戻ってきたんだ。
ミチルの元へと歩み寄って手を差し伸べる。強張った肩を抱きながら、俺はようやくここに戻ってきた目的を口にした。
「そいつの元に帰しちゃいけない。この子は父親から虐待されてるんだ」
ダラダラと休んでいた日々が幻だったかのように、慌ただしく一日が過ぎていった。
俺はミチルの置かれている状況を順序立ててみんなに説明した。馳係長を中心に、事件化を視野に入れて今後の方針を立てていく。久しぶりに復帰したというのに感傷に浸る余裕はまるでなかった。
まずはミチルから簡単な調書を取り、その細い身体に刻まれた虐待の痕跡を全部写真に残すという作業に追われた。
事件の捜査を進めるより先に、ひとまず行政的な措置を行わなければいけない。ミチルの件を実父から息子に対する児童虐待事案として児童相談所へ通告するために、俺は久しぶりに児相や役所と連絡を取り、書類を作成していった。
ミチルを祖母の家へと避難させるから、今回は身柄なしの書類通告になる。ミチルの虐待については書類を児相に引き継いで、そのまま祖母の家へと送ることになった。
ミチルの祖母に電話を入れて、簡単に経緯を説明した上で今から連れて行きたいと言えば、二つ返事で受け入れてくれた。
『刑事さんだったんですね。それで、あの子のことを』
彼女は俺の正体にやっぱり少し驚いていたけど、それでも薄々そんなところだと勘付いていたようだ。
「すみません。事情はそちらに着いてからお話しします」
『わかりました。お待ちしていますね。気をつけて』
穏やかで聡明な人だと思う。彼女のところにいれば、きっとミチルは大丈夫だろう。
署の中で一番事情を把握している俺が、ミチルを祖母の家まで送っていくことになった。
日が傾いて茜色に染まる空を見上げながら、俺は大きなデイパックを背負ったミチルと署の駐車場に出た。覆面の捜査車両はよく磨き上げられた白いセダンだ。後部のドアを開けてミチルの手から荷物を取り、シートの奥へと押し込んだ。
「ほら、乗れよ」
ありがとう、と小さな声で頭を下げてミチルはリアシートに腰を落とす。ドアを閉めて運転席に乗り込むと、すぐに車を発進させた。
ミチルはさすがに疲れた顔をしていたものの、その表情にもう怯えは見えなかった。
「今日は児相に虐待の事実を通告するだけになるけど、これから捜査をきちんと進めていく。お前のお父さんは悪いことをしてるけど、だからと言ってすぐに身柄を拘束することはできないんだ。一人の人間を逮捕するのは大変なことで、事件がひっくり返らないようにきちんと証拠を集めなければいけない。外堀をしっかり固めてから令状を請求する。だから、ミチルにはこれからもっと詳しく事情を聞いていくし、実況見分にも立ち会ってもらうことになる。お前のおばあちゃんの協力も必要だ。その都度説明はしていくけど、それでもわからないことがあれば遠慮せずに俺に訊けばいい」
「おばあちゃんの家に僕がいること、お父さんにばれない?」
ミチルの疑問は至極当然のものだった。この子にとってはそれが最も気になるところだろう。
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