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the last act. Plastic Kiss side A 〜 prologue 1
待つのが怖くないのは、必ず帰ってくることを知っているからだ。
闇の中で息を潜めながら、僕は革張りのソファから腰を上げてゆっくりと窓へと歩み寄る。
二面をガラスで囲まれたこのリビングは、僕の大好きな空間のひとつだ。
ガラスの向こうに広がる夜に沈むのは、鮮やかに瞬く宝石の粒。人工的な輝きが、この風景によく溶け込んでいる。
そのひとつひとつが人の営みの証なのだということはわかっていた。命の灯火が煌びやかに光を放つ。けれど、この中に僕の望む人はいない。
デッドボルトが回る音が耳に届く。ひとつめのそれが聞こえたときには、僕の足は自ずと玄関へ向かっていた。
夜の澄んだ空気と共に入ってくるのは、こんな僕の傍にずっと寄り添ってくれる人だ。
「おかえり、ユウ」
「ただいま」
数え切れないほど繰り返されてきたこのやり取りは、そう遠くないうちに終わりを告げる。それはひどく淋しいことではあるけれど、受け容れる覚悟は少しずつ固まってきていた。
僕は、僕の意志でここから外の世界へと出て行く。
「外の空気を吸いたいんだ」
そう告げれば、優しい微笑みが返ってくる。
「一緒に出るか」
「少し歩きたいんだけど、それでもいい?」
「ああ」
美しい鳶色の瞳は、忘れられない人と同じものだ。
「ありがとう」
一緒に外へと足を踏み出せば、真夜中の心地よい空気が僕たちを包み込む。
天上に近いこの場所からエレベーターで地上へと降りる。エントランスを抜ければ静かな夜の世界が広がっていた。
街の中心部から少し入っただけだというのに密やかに呼吸するように佇むこの環境を、僕は気に入っていた。ここは街の喧騒から逃れるのにちょうどいい場所だった。
二人で肩を並べて街路樹を抜けていく。穏やかな沈黙が夜の空気と混じり合う。
整備された公園の小径をゆっくりと歩き続ける。夜風に吹かれる度に樹々がさらさらと騒めいた。ああ、人の話し声のようだ。
流れる小川の水音に耳を澄ませながら、僕はふと思い浮かんだ光景を口にしてみる。
「何十年も先にも、真夜中に出歩きたくなって、僕はこういうところを歩いてるかもしれない」
僕の言葉にユウは興味深そうに微笑む。
「そうだな」
その時、ユウは僕の隣にはいない。
胸が締めつけられるように痛むのは、きっと今の僕がユウに守られているからだ。
「お前の口から未来の話が出るとはな」
嬉しさと淋しさの入り混じったような口振りだった。本当は、ユウは僕以上にこの関係を失うことを怖れているのかもしれない。それでも、僕が飛び立てるようになるまでこうして傍にいようとしてくれる。
互いに見る夢を溶き合わせるように二人で紡いできた時間を、少しずつあるべき姿へと還していく。今ユウが僕にしてくれているのは、そういうことだ。そんな気がしていた。
足を止めるとユウが僕の一歩先で振り返る。向かい合わせになれば、僕たちを見下ろす外灯に照らされて、その瞳の色がはっきりと浮かび上がった。
美しく煌めく鳶色の双眸。
僕たちは、見えない何かで繋がっている。その正体は、きっと。
「ユウは、サキのことを愛していた?」
僕たちの中にある、サキの記憶だ。
唐突な問いかけに、ユウは答えなかった。ただ、目を細めて僕の言葉を心の中で反芻しているようにみえた。
僕が見ているのは、ユウなのだろうか。
ユウが見ているのは、僕なのだろうか。
合わせ鏡のように言葉もなく見つめ合い、やがて沈黙は途切れる。
「──そうだな」
肯定の言葉のように聞こえるけれど、単なる相槌なのかもしれない。真意はどちらともつかなかった。
曖昧な答えに小さく笑ってから、僕は口を開く。
「少しずつ思い出せなくなってきてるんだ」
生まれた時から、サキは僕の全てだった。
けれど、サキに抱いていた感情を思い出そうとすると、なぜか頭の中は黒い靄が掛かったように不鮮明になっていく。
断片的な記憶が頭に浮かんでも、最後にはいつもあの光景で途切れてしまう。
白い病室でサキと交わした訣別の瞬間。
脆い硝子細工のように、壊れていったサキ。
──愛してるから、生きてくれ。
プラスチックみたいなキスを残して目の前でサキが空へと飛び立ったあの記憶は、今も僕の脳裏で鮮明に再生される。
ああ、違うんだ。
サキは僕を愛していなかった。
そしてそれと同じように、僕もサキを愛してなどいなかった。
結局のところは、それが真実だったような気がしてならない。
「忘れることは、悪いことじゃない」
優しい慰めの言葉に僕はただかぶりを振る。
忘れることで生きていけるならその方がいいと、この人は言いたいのだろう。
けれど僕はサキを忘れたいわけではなかったし、忘れたからといって罪が消えるわけではないこともよくわかっていた。
「忘れてはいけないと思うんだ」
夜風に揺れる樹々のざわめきに乗せるように、僕はそれだけを口にする。
「そろそろ帰ろうか」
頷いて踵を返した僕は、街灯の光で淡く濁る天上を眺める。
あと二時間もすれば空は白み始めるだろう。
けれどこの夜が明ける瞬間を、僕は思い描くことができない。
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