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the last act. Plastic Kiss side A 〜 the 1st day 10

玄関を上がった途端、おいしそうなにおいが鼻をくすぐる。廊下を通り抜けて扉を開け、ダイニングへと入れば大きなテーブルの上に所狭しと料理が並んでいた。 丁寧に巻かれたロールキャベツに、カレイのムニエル。サラダボウルにはきれいな色をした野菜が盛られている。南瓜のサラダに、空豆のソテー。彩りのある温かな食卓だ。 ふと、サキのお母さんが毎日のように食事を作ってくれていたことを思い出す。隣に住む僕たち姉弟の面倒を見てくれた優しい人は、いつも笑顔で僕たちを迎えてくれた。 その記憶はそのまま、胸に広がる哀しみと共に淡く消えていく。 「ばぁば、作り過ぎだよ」 「ロールキャベツが食べたいって、歩が電話で言ってたから張り切っちゃった。たくさん召し上がれ」 小さな頭を撫でながらそう言って、彼女は優しい微笑みを向ける。幸せな家庭の光景だ。けれどこれがどこにでもある当たり前のものではないことを、僕はよく理解しているつもりだった。 玄関からドアの開く音が聞こえてきて、瞬時にアユムくんが振り返った。 「あっ、じぃじだ!」 そう言うや否や、仔犬が軽やかに駆けるように部屋を飛び出していく。また緊張した面持ちになるミツキを横目で見ていると、ふと目が合った。 大丈夫だなんて軽々しく言うことはできないけれど、それでも僕はそっと頷いてみせる。 アユムくんに手を引かれながら入ってきた男性は、五十歳手前ぐらいの年齢だろうか。細いストライプの入った黒いスーツがよく似合う、体格のいい人だった。 ミツキのお父さんは、僕が想像していたよりもずっと穏やかな顔つきをしている。 久しぶりに会う息子に視線を向けたその人は一瞬目を見開いて、それからポツリと呟いた。 「……帰ってたのか」 それはまるで、何気ない日常の一コマのようだった。いつものように仕事を終えて帰宅した父親が、先に戻っていた息子に言葉を掛ける──そんな口調だ。 「ああ、うん」 拍子抜けしたように返事をして、ミツキは何度も瞬きをする。大声で怒鳴られることを予想して身構えていたのかもしれない。強張っていた肩の力がふっと抜けたのが、見ていてわかった。 「光希とアスカ。俺が連れてきたんだよ」 アユムくんはそう言って得意げな笑みを浮かべる。今、この家族を繋いでいるのは紛れもなくこの子だった。小さな身体の中に秘められたその力は本当に強いと思う。 「すみません。お邪魔してます」 「ああ、どうぞ」 頭を下げながら挨拶をすると、ミツキのお父さんも会釈してくれる。朴訥としているけれど、感じのいい人だ。見る限りでは、きっとこの状況を不快には感じていないのだろうと思った。 「食事にしましょうか」 ぎこちなく滞っていた時間が、ミツキのお母さんの声で動き出す。僕はひとつの家族が再び歯車を回していく瞬間に立ち会わせたらしかった。 食卓に並んだ料理はどれもとてもおいしくて優しい味わいだった。やっぱりサキのお母さんのことを思い出してしまい、胸が重く痛む。 僕が幼い頃、彼女は忙しかった僕たちの母に代わりこうして毎晩のように家に招いてくれた。一緒に食卓を囲んだ日々は、僕の中で今も褪せることのない懐かしい想い出だ。 けれど愛おしい記憶は、サキのいない現実へと繋がっていく。 ──愛する息子を失った今、彼女は僕のことをどう思っているのだろうか。 「ばぁば。ロールキャベツ、お代わり!」 「はいはい、どうぞ」 よく食べてよく笑うアユムくんが、この家族の潤滑剤となっていた。 幸せな家族の形。少なくとも表面上はとても和やかに見える。けれどミツキにとってこれは数年振りの歓談だ。そして、ここにいる誰もがまだこの状況に馴染むことができず、アユムくんを通して言葉を交わしていた。 「……あのさ」 手を止めて硬い表情で口を開いたミツキは、向かいに掛けた両親の顔を交互に見つめる。途端に重い沈黙が降りてきた。その様子を僕は隣でただ見守ることしかできない。 「悪かったと思ってるんだ。高校を卒業してから、逃げるみたいに家を出て、全然帰って来なくて」 ゆっくりと、恐る恐る言葉をこぼしていく。掛け違えたボタンをミツキは自らの手で修復しようとしている。その真摯な眼差しはしっかりと前に向けられていた。 「……もう、いいのよ。誰が悪いわけでもないわ。少し意地を張りすぎてただけね」 私たちも、あなたも。 ふっくらとした唇が言葉を置くようにそう動いて、また微笑みの形を結んでいく。雲の隙間から射し込む陽の光のような、柔らかな声だった。 ミツキは目を見開いて、両親を交互に見つめた。氷のように固まっていた時間は、年月を経てきちんと溶けてきている。少なくとも僕の目にはそう見えた。 「……うん」 照れくさそうに俯いて、不意にミツキは隣に掛ける僕を見る。 よかったね、ミツキ。 そんな思いを込めて頷けば、強張っていた表情が緩むのがわかった。 「ばぁば。ごはんのお代わり、ちょうだい」 食卓の上で交差する思いを遮るように、空になった茶碗を自らの祖母へと差し出して、アユムくんは僕に話しかけてくる。 「アスカもちゃんと食べなよ。遠慮しないでさ」 ああ、この子はちゃんと理解しているんだ。この状況も、自分の役割も。 そう思うと小さなこの子が愛おしくて、今すぐにでも抱きしめたい気持ちになった。 「大丈夫だよ、ありがとう。アユムくんは優しいね」 そう言葉を返すと、にんまりと嬉しそうな顔で笑う。このまま真っ直ぐに大きくなってほしいと願わずにいられない、天真爛漫な笑顔だった。 「光希は、大学に入ってからどうしてたの」 「どうって──」 別に普通だよ、と困惑した顔でミツキは答える。もう胸のつかえが取れたように肩の力が抜けているのがわかる。 空いていた時間を埋めるように家族が心を寄せ合っていくのを、 僕は嬉しく思いながらも羨望の眼差しで眺めていた。

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