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the last act. Plastic Kiss side A 〜 the 2nd day 1
深い闇の中で目を開けると、朧げに何かが視界に入り込んできた。
無数の小さな気泡が、キラキラと仄かに光を反射しながら昇っていく。
ああ、そうか。ここは海の底だ。
淡く煌めく世界で、僕は恐る恐る呼吸を繰り返した。少し息苦しいけれど、きちんと酸素を吸うことができる。
僕も泡になれるのなら、この深い底から出られるのだろうか。
けれど犯した罪が枷となり、浮上することは叶わないだろう。
光射す水面を突き抜けて遥か空へと辿り着くことができれば、亡くなった人に会えるのだろうか。
記憶の中には今もサキが鮮やかに息づく。優しい声。穏やかな微笑み。クリスタルガラスのように煌めく鳶色の瞳。僕を抱きしめてくれる温かな腕の中。唇に落とされる柔らかなキス。ひとつになって閉ざされた世界に融けていく感覚。
失ったものの全てがあまりにも大きくて、どうすればいいのかもわからない。
『サキなんて、いなくなればいい』
僕があんな酷いことを言わなければ、サキはもっと長く生きられた。いや、それだけが原因ではない。僕自身の存在が、サキの最期を穢してしまった。
僕と一緒にいてはいけなかった。サキにはもっと相応しい時間の過ごし方ができたはずだ。
僕はサキの残りわずかな尊い時間を蝕んだ。だからこそ、サキは僕を選ばなかった。
──飛鳥。
名前を呼ばれて振り返れば、微かに人のいる気配を感じた。
僕は一人だと思っていたのに、誰かがいる。
ぼんやりと闇に浮かぶ靄のような残像に手を伸ばしてみる。けれど、そこには細やかな気泡しか存在しない。
触れられない虚空に絶望を感じながら、僕はまたあてもなく水の中を彷徨う。足がうまく動かず、歩みは遅い。
犯した罪の重さは自覚している。この期に及んで赦しを請うのは浅ましいことだとわかっていた。
このまま、サキのいない世界を生きること。それが今の僕に与えられた枷だ。
声が枯れるまで謝りたくても、それは叶わない。
ねえ、サキ。お願いがあるんだ。
どうか、どうか僕に、
罰を与えて──。
瞼に触れる柔らかな感触に、ゆっくりと覚醒していく。
ふわりと意識が浮上していくのが心許なくて、身体が勝手に竦んでしまう。
「──アスカ」
耳元で聞こえるのは心地いい声。幾度か名前を呼ばれてうっすらと瞼を開ければ、見慣れぬ白い壁が目に入った。
ああ、そうだ。
身体を反転させれば、凛とした眼差しが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。この瞳はいつだって真っ直ぐに僕を見つめる。だから、どうすればいいかわからなくなるんだ。
応えることも拒絶することもできずに、ただ注ぎ込まれる眼差しに身を焦がす。
「ミツキ……」
名前を口にして瞬きをすると、目尻から雫が伝い落ちていった。夢を見て泣くのは随分久しぶりのことだ。
どうしてだろう。こうして寝醒めに見る夢の名残に流す涙はいつも冷たい。
「おはよう」
そう言ってミツキは安堵したように頬を緩ませた。その唇が濡れているのは、つまりそういうことなのだろう。途端に気恥ずかしくなって僕は視線を逸らした。
「よかった。早くこっちに引き戻さないとって、思ってた」
優しい微笑みに胸が痛くなる。夢の向こう側に行けば僕が帰ってこられなくなると、ミツキは思い込んでいるのかもしれない。
けれどその懸念はあながち間違いではない。この夢を越えたところに、きっとサキはいるのだから。
「大丈夫だよ。ありがとう」
サキのところへ行きたい。そう渇望することを、僕はとうに諦めている。
体を包み込む温もりがいつもとは違うことに戸惑う。ゆっくりと息を吐けば、ほんの少しだけ緊張が解れた気がした。
壁の掛時計は七時を指そうとしている。随分長く眠っていたことに気づいて慌てて身体を起こせば、僕の身体に巻きついていた腕がするりと解けた。瞬時にこの感覚を失いたくないと思ってしまう自分の浅ましさに小さく溜息をついた。
ああ、どうかしている。
「……きれいだな、アスカ」
そんなことを言われて視線を移すと、真っ直ぐに僕を見つめるミツキの顔が目に入る。カーテンの隙間からこぼれる陽の光に照らされて、その眼差しはゆらりと燻っていた。
ドクドクと破裂しそうに鳴る心臓を射抜く、凛とした双眸。
このままこうしていると、僕はまた間違いを犯してしまうかもしれない。
危ういせめぎ合いを繰り返しながら僕たちはただ見つめ合っていた。
いつかミツキと過ごしたあの四日間を想い出せば、胸が苦しくなる。
「俺はもう起きようかと思うけど」
先に沈黙を破ったのはミツキだった。布団からするりと抜け出して立ち上がり、僕を見下ろす。
「アスカはゆっくりしてていいよ」
「いいよ、僕も起きる」
身体を起こしながらそう言葉を重ねれば、ミツキは少し笑って目を細めた。
失った温もりの余韻は、想像していたものとは違って心地いい。それは、これが永遠になくなるわけではないと感じているからだ。
そんなことで安堵する資格などないのに。
「着替えてくる」
部屋を出て行くミツキの背中を見つめながら、僕はまた密やかに溜息をついた。
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