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the last act. Plastic Kiss side A 〜 the 2nd day 3

身支度を整えて荷物をまとめてから階下へと降りていくと、アユムくんが廊下で待ち受けていた。 「アスカ、早く! もう出るよ」 リビングに顔を出すと、ミツキとご両親がソファに掛けていた。長い間確執があったとは思えないぐらいに、ごく自然な家族に見えた。 「おはようございます」 「おはよう」 ミツキのお父さんに挨拶をすれば、同じ言葉が返ってくる。口数は少なそうだけれど、その顔に浮かぶ穏やかな微笑みには人柄の良さが滲み出ていた。 ミツキがカバンを片手に立ち上がり、こちらへと歩み寄ってくる。 「お世話になりました」 そう頭を下げると、アユムくんも隣でぺこりと同じ動作をする。かわいらしさに自然と笑顔になった。 「とても楽しかったわ。ありがとう」 玄関先でミツキのお母さんがそう言いながら僕たちを見送ってくれた。 もうここへ来ることはないだろう。そのことを名残惜しく感じてしまう自分を浅ましいと思った。 ここは、僕の居場所ではないのに。 「気をつけてね」 そう言って、彼女は微笑みながら真っ直ぐに僕を見つめた。 「またいらっしゃい。今度はもっとゆっくりしていけばいいわ」 思いがけずそう声を掛けられて言葉に詰まると、ミツキが呆れたように口を開く。 「なあ、それは俺に言うことじゃないの」 軽く拗ねたような口ぶりに、彼女は小さく笑った。 「あなたはまた帰って来るでしょう。もう大丈夫ね、意地を張らなくても」 目に見えない絆を煌めく宝石のようにちらつかせながら、彼女はそう言う。 「……また来てもいいですか」 恐る恐る尋ねて深く頷かれたとき、僕は無責任にも心のどこかで安堵していた。 もうここに来ることはないのだからと自分に言い聞かせようとしながらも、この人にもう一度会いたいと思った。 「その時は、あなたのことをもっとたくさん聞かせてね」 そう言って彼女は美しく微笑む。本当は既に僕の全てを知っているのかもしれない。そう思わされるような、真摯な眼差しだ。 「はい」 戯れに抱きついてくるアユムくんの肩を抱きながら、僕は頷くことしかできない。 来るはずのない、いつかの約束。 それでも僕は、その日が訪れればいいと心のどこかで願っていた。 アユムくんの家はミツキの実家からそれほど離れていないようだった。駅前からバスに乗って、アユムくんと窓の外を眺めては他愛もないことを話し、幾つかの停留所を越えたところで降りる。しばらく歩くとベージュ色のマンションが見えてきた。六階建の、こじんまりとしたかわいらしい建物だ。 エントランスは管理人が常駐しているわけではないらしく、無人だった。アユムくんは背負っていたリュックから出したキーを慣れた手つきで差し込んで、オートロックを解錠する。 四人ほどでいっぱいになるような小さなエレベーターに三人で乗り込むと、アユムくんは最上階のボタンに触れた。エレベーターを降りると正面の扉に小走りで駆け寄り、小さな指でインターフォンを押す。 ゆっくりと扉が開いて、きれいな女の人が笑顔で出迎えてくれた。 「ママ、ただいま。ほら、アスカだよ!」 「おかえりなさい。ああ、本当ね」 ミツキのお姉さんはそう言って僕に視線を向ける。以前ミツキと過ごした四日間で出会ったときと変わらない、気さくな態度だった。 「お久しぶりね。歩の面倒を見てくれてありがとう」 「ご無沙汰しています。こちらこそ、アユムくんとまた会えて嬉しかったです」 素直な思いを口にすれば、薄く色づいた唇が形のよい弧を描く。その瞳がミツキを見て、悪戯っ子のように煌めいた。 「嬉しそうな顔しちゃって。よかったじゃない」 「うるさいな」 照れ隠しのようにそう返して、ミツキはアユムくんと玄関の中に入っていく。そのやりとりで、この人がミツキと僕の事情を幾分かは知っているのだとわかる。 これはユウが仕組んだ四日間で、僕が自分の意志でここにいるわけではない。彼女の言うようによかったと手放しで喜べるような状況ではないけれど、それだけミツキは僕に会いたいと思ってくれていたのだろう。 あの四日間を終えてからこれまでの間、ミツキがどう過ごしていたのかは知る由もない。けれど、それを想像しようとするだけで胸が痛んだ。 その時間は、僕にとって悩ましいものだったから。 「よかったら、お茶でもどうぞ」 「いいよ。行きたいところがあるから、すぐ出るつもりでいたんだ」 ミツキはそう言って誘いを断ったけれど、アユムくんが僕の手を取って中へと引き寄せる。 「待って。アスカ、ちょっとだけおれの部屋に来てよ」 「え? どうしたの」 小さな手なのに僕を引く力は驚くほど強かった。室内に足を踏み入れる前に振り返ってミツキの表情を窺えば、苦笑した顔が目に入る。 「わかった、待ってる」 その言葉に頷いて、僕は手を引かれるままに玄関を上がってすぐ左側の部屋へと入る。明るい水色のカーテンに真新しい机とベッドが置かれた、清潔でかわいらしい子ども部屋だ。 アユムくんはそっと扉を閉めて、窓際へと僕を誘導した。これから話すことを誰にも聞かせたくないという意志表示なのだとわかった。 「どうしたの」 アユムくんは困ったような瞳をしながら無言で僕を見上げて、やがて決意したかのようにそっと口を開いた。 「おれ、アスカに謝らなくちゃいけないことがあるんだ」

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