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the last act. Plastic Kiss side A 〜 the 2nd day 13
六階建てのこの建物を、僕はよく憶えていた。
ここに初めて足を踏み入れたあの日が、今ではずっと遠い昔のことのように思える。
このインターホンを押した後に始まった四日間は、サキを失ってから虚無の中で生きてきた僕にとって大きな転機となった。これからどんな未来が待っていようと、ミツキと共に過ごしたあの日々を忘れることはないだろう。
「アスカ、上がれよ」
立ち尽くす僕に振り返ってそう促すミツキは、心なしか緊張しているように見えた。
「お邪魔します」
在り来たりな言葉を口にして室内に上がり込む。余所余所しさを装わなければ、冷静な自分を保てなくなる気がした。それをミツキに見透かされているのではないかとも思う。
ミツキの家はあの時と変わらずきれいに片付けられていた。2DKの部屋は学生が一人で住むには十分な広さだ。
あれ以来、ここに誰かを連れてきたことはあるんだろうか。
一瞬でもそんなことを考えてしまった自分に嫌気が刺す。ミツキが誰とどう過ごしていようと、僕には関係のないことだ。そんな疑問を抱く資格などない。
「お腹空いてるよね。何か作ろうか」
水族館を出てから買い物をしているうちに、随分遅い時間になっていた。食事の準備を申し出れば、ミツキはかぶりを振ってキッチンへと向かう。
「俺が作るよ。そのために買い物をして帰ったんだから」
「でも」
「いいって。アスカはゆっくりテレビでも観てろよ」
半ば強引に押し切られてしまって、僕は所在なくダイニングに座り込む。
帰りに立ち寄ったスーパーで食材を選んだのはミツキだった。独り暮らしをしているのだから、料理ができるのも当然のことだ。けれど僕は、ここへ来て何かをすることで気を紛らせようとしていたから、その思惑が外れてしまいもどかしく思った。
食材をレジ袋から取り出していくミツキの後ろ姿を、いつの間にかじっと見つめてしまっていることに気づく。
キッチンでの立ち姿はとてもきれいだ。この部屋であの身体に抱かれたことを想い出し、反射的に目を逸らした。
手持ち無沙汰にテレビを点けてみる。映し出されたバラエティ番組を数秒眺めてから、笑い声を掻き消すようにチャンネルを変えた。
切り替わったディスプレイに映るのは、青く澄み渡る空と白亜の校舎。くっきりとしたコントラストが美しい。
制服を着た長い髪の一人の少女が、つまらなそうに空を仰いでいた。恐る恐る上空へ向かって伸ばした手は、何も掴まずに虚空を彷徨う。
『マナ』
名前を呼ぶ低い声が聞こえてくる。それが彼女の演じる役名なのだろうか。
幾度か名前を呼ばれても、彼女は空を掴もうとすることをやめない。繊細な指先が徒らに舞う様子は、まるで蝶が飛んでいるようにも見えた。
『つまらない』
濡れたように光る桜色の唇が、そんな言葉を紡いでいく。
『毎日が同じことの繰り返し。大人って、退屈そう。だから私は大人になんてなりたくない』
掲げられた彼女の手首を握りしめて降ろしたのは、濃い色をしたスーツ姿の年若い男だった。
『毎日が同じように思えるけど、実はそうじゃない。少しずつ変化してる。それに気づいた時が、大人の始まりだ』
『私がお子さまだって言いたいの?』
二人を隔てる空間は少しずつ縮まっていく。
至近距離で視線を混じらせながら、彼女はそっと溜息をついた。
『先生のそういうところが嫌い』
そう言いながら惑うように揺らめく瞳には、光が煌めいていた。それはきっと恋の灯火だ。
教師と生徒の関係。この二人は既にそのタブーを破っているのだろう。
男の指先が少女の頰に触れて、艶やかな眼差しが注ぎ込まれる。
『マナが子どもかどうかは、俺が一番よく知ってるよ』
「──その子、最近よく出てるな」
ふと声を掛けられて顔を上げれば、ミツキが僕を見ていた。
「そうなんだ。僕は初めて見たかもしれない。テレビはあまり観ないんだ」
全く観ないというわけではない。こうして誰かと手持ち無沙汰に眺めることはある。ただ、意識して観ることがないから、画面越しに流れてくる情報をうまく頭に入れることができない。
僕は自分を取り巻く世界から離れたものにそこまで関心を持てないのかもしれない。
「知らないか? その子、少し前にハニーリップっていう化粧品のイメージキャラクターに採用されて、それからよくテレビに出るようになったんだ」
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