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the last act. Plastic Kiss side A 〜 the 3rd day 5

『運転は侑よね。誰がどこに座るかは私が決める』 腰に両手をあてて、有無を言わさぬ口調で瑠衣は僕達の顔を見渡し、そんなことを告げる。 川へ行くというのに、僕の姉は真っ白のサブリナパンツを履いていた。けれど彼女がいざというときは自分が汚れるのも厭わないことを僕は知っている。 確か僕が小学校高学年の頃のことだ。瑠衣と二人で雨の中を歩いていたとき、見知らぬ小さな男の子がすれ違いざまにバランスを崩してしまった。 水たまりに足を取られて倒れるその子に、瑠衣は白いスカートの裾をひらめかせながら躊躇うことなく手を伸ばした。 パシャリと音を立てて巻き散る水飛沫。 小さな手を取って引き起こした彼女は、屈んでその子の顔を覗き込む。 ──大丈夫? 泣いてないじゃない。えらいね。 こくりと頷く子の頭を撫でて、瑠衣は満足げに微笑む。手を振って小さな後ろ姿を見送ってから、僕はそっと彼女の方を向いた。自分が彼女より先に動けなかったことを、申し訳なく思った。 ──瑠衣、汚れちゃったね。 白いスカートには大きな濡れ染みができていた。それを確認してから、瑠衣は眉ひとつ動かさずに前を向いた。 ──洗ってみて、落ちなければ漂白すればいいのよ。それでも無理ならもう仕方ないわ。 いとも容易くそう言って、汚れたスカートで颯爽と歩く姉が僕には誇らしかった。 瑠衣が本当は優しい人だということを僕は知っている。だから、いくら我儘を言われても憎むことができない。 『飛鳥が助手席で、後ろの席は沙生と私。いいわね』 え、と思わず口にしてしまうけれど、瑠衣がそう言いだすことはなんとなく想像がついていた。 『だって、飛鳥はいつも沙生の隣にいるじゃない。こんな時ぐらい、代わってくれたっていいでしょ』 グイ、と沙生の腕を引いて彼女は僕にそう投げ掛ける。胸の奥はチクリと痛むけれど、それぐらいは許容しないといけないとも思う。 僕達姉弟は、幼い頃から競うように沙生を慕っていた。けれど、瑠衣は最終的に大好きな沙生を僕に譲ってくれた。 それは彼女にとって人生最大の譲歩だったに違いない。それでも僕達のことを認めてくれたのは、沙生の意志を尊重したいと思ったからなのだろう。 それだけ瑠衣が沙生を大切に想っているということだ。 『うん、いいよ』 言われるままに頷けば、瑠衣は満足げに微笑む。侑と沙生が口を挟まないのは、僕達の関係を理解してくれているからだ。第三者からすれば、僕達四人は危ういバランスを保っているように見えるのかもしれない。 瑠衣は沙生の隣にいると本当に愛らしい表情をする。僕よりもずっと沙生に相応しいと思う。 それでも沙生が僕を選んでくれることが不思議で仕方がないし、不安を感じてしまう。 重いドアを開けて僕は助手席に乗り込んだ。いつも侑が乗っている車よりもずっと車高があり、そのせいか視界が広く感じられた。 後部座席を振り返れば、沙生と瑠衣が親密な雰囲気で微笑み合っていた。その笑顔をそのまま僕に向けながら、沙生は声に出さず唇を動かした。 ──大丈夫。 不安が拭えたわけではないけれど、沙生が僕を気遣ってくれていることはわかった。小さく頷いて、僕は前に向き直す。 後ろの会話はなるべく気にしないでいよう。そう決意して、一呼吸ついた。 侑がアクセルを踏み込んで、車が滑らかに発進する。このメンバーでこうしてどこかへ出掛けるのは随分久しぶりだ。僕達四人はそもそも仲の良い幼馴染みの兄弟同士だった。けれど他でもない沙生と僕が、そのバランスを崩してしまったのだ。 高速道路をしばらく駆け抜けて、やがて郊外へと出る。ランプを降りてから辺りに広がるのどかな町並みをぼんやりと眺めていると、前方を黒く小さな何かが素速く横切った。 『わっ』 驚いて侑の顔を見るけれど、全く動じている様子はなかった。その証拠に車の速度は落ちることがなく、何事もなかったかのように走り続ける。 『何、今の』 『イタチだ』 イタチ。その答えであの動きに合点が行く。僕が野生のイタチを見たのはこれが初めてだった。 『すばしっこいんだね。急に飛び出してきたからびっくりした。侑はよく平常心でいられるね』 感嘆の息をつく僕を横目で見て、侑はおかしそうに笑った。 『動物が飛び出してきたぐらいでブレーキを踏んでいたら、こっちの身が危ないからな』 その言葉に、侑がしばしばふらりと国内外を旅してきたことを思い出す。旅先でも、今のように野生の動物と遭遇することが何度もあったのかもしれない。そんなことを想像して、ふと羨ましくなった。 侑は僕が知らない世界をたくさん見ている。だから、僕が瑠衣に抱く浅はかな嫉妬も、侑から見れば取るに足らないようなものなのだろう。

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