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the last act. Plastic Kiss side A 〜the 3rd day 16
世界中にたくさんの人が存在するにもかかわらず、今の沙生は僕だけを愛してくれている。それだけで、もう十分だ。
あれだけ熱を持っていた身体が急速に冷えていくのを感じる。忘れていた冬の寒さが、突然に僕たちを取り巻いていた。
凍てつく空気の中、僕は浅く呼吸をしながら沙生の腕の中でただじっとうずくまる。
見上げれば暗い空間が視界に広がっていた。空を隔てるこの天井が、僕達をこの部屋に縛りつけている。不意にそんな考えが思い浮かんだ。
人は死んだらどこへ行くのだろう。
本当は、行く場所などないのかもしれない。生きている人間には、死後の世界が存在するのかどうかを確かめることもできない。
遥か彼方に存在するという楽園は、まがいものなのだろうか。
透明なプラスティックで造られた球面に囲まれて、僕達は誰かに操られながら呼吸しているだけなのかもしれない。
PLASTIC HEAVENを後にして、僕達は車で帰路に着いていた。
穏やかで優しい時間が、過去と現在を緩やかに織り成し、交差させていく。まるで、時空の波を漂っているかのように。
けれど、この潮流は意図的に作られているに違いない。
あと一日余りでこの旅は終わる。その時、僕は何らかの答えを見出だせているのだろうか。
ミツキと僕の間には、取るに足らない会話が行き交う。子どもの頃好きだった他愛もない遊びのこと。十年程前に華々しく活躍していたのに不意に姿を見せなくなったアーティストを、最近になってまたテレビで見かけるようになったこと。カーステレオから流れる少しサイケデリックな曲が、今年最大のヒットソングであること。
「この曲、素敵だね」
車内に響く女性ヴォーカルの曲を聴きながらそう呟けば、ミツキも頷く。
重厚なストリングスに載せたポップな電子音。その豊かな音の重なりに埋もれることなく主張する真っ直ぐな歌声は、澄み切って凛としている。
きっと歌っている人も、誰にも媚びずに生きているのだろう。そう思った。
「幸せだった過去を振り返らない。そんな歌詞だ」
ぽつりとミツキはそう呟き、その言葉を僕は心の中で反芻する。
幸せだった過去とは、僕にとって一体どの瞬間を指すのだろうか。
脳裏を走馬灯のように流れる記憶の全てが、今の僕を形成している。どれが欠けても成り立たないのかもしれない。だから、その一部を切り取ろうとすることは不毛だと思った。
「潔い歌だね」
「そうだな、潔い。その言葉がしっくりくる」
僕の言葉に賛同して、ミツキは目の前をじっと見据える。フロントガラスに広がる夜空には、小さな星が煌めく。
思えば、サキの死を境に同じ年代の人と話す機会は随分減っていた。
こうして背伸びをすることのない関係は、居心地がいい。
頭の中に仕舞い込んだ想い出を互いにちらつかせながら、それらを共有したり新たな発見をしたりすることを繰り返し、僕達はこの夜を噛みしめるように過ごしていた。
外で軽く夕食をとって帰宅し、交代でシャワーを浴びてから僕たちはひとつのベッドに潜り込んだ。初日よりは慣れたけれど、それでもこの温もりに触れると、えも言われぬ複雑な感情が胸の中を渦巻く。
ミツキに背中を向けると、後ろから包み込まれるように抱きしめられる。一瞬速くなった鼓動は、しばらくすれば徐々に落ち着いていく。深呼吸を重ねてリラックスしながら、僕はもどかしかったこの姿勢を保つことができるようになったと気づいた。
身体を重ねることなく夜を過ごす。それでも、合わさる肌は歪に隙間の空いた心を満たしていく。
「アスカがいなくなってから、俺がアスカの家に行ったことがあっただろ」
耳元でそう言われて、僕は問い返す。
「そのときに、ルイと……僕の姉と会ったんだよね」
「ああ」
サキの死を受け入れることができずに家を飛び出した後、ミツキが僕を捜してくれたことは聞いていた。だからこそ、ミツキは僕へと辿り着くことができた。
「以前にも言ったかもしれないけど、アスカの家の場所を教えてくれたのは、生物理工学部の研究室にいた女の人だったんだ」
僕の住んでいた家を知る人が、サキの傍にいた。それはつまり、サキのプライベートを知るほどには親しい関係だったということだ。
「高尾沙生の家に行ったことがある。その隣がアスカの家だと、その人が教えてくれた」
ああ、あの人だ。
── あなた男の子でしょう。男の人が好きだなんておかしいと思う。
花弁がひらひらと舞い落ちてくるかのように、忘れていたはずの記憶が降り立つ。僕がサキと結ばれる前、高校生だった僕に向かってそう言い放った彼女。
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