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the last act. Plastic Kiss side A 〜the 4th day 1

朝の気配がする。 温もりの心地よさに身体を委ねて、僕は目を閉じたままそっと呼吸を繰り返す。 眠っている振りを続けるのは、人肌に包まれていることに安堵を覚えているからだ。 一秒でも長く、こうしていたい。そんな願いを抱いてしまう。 覚醒しようとしていた意識が、再び遠ざかっていくのがわかる。 深く、深く、落ちる。誰にも届かないところまで。 繭の中に潜む蚕のように、うずくまって背中に感じる体温を味わながら、僕は時間が遡っていくのをただ待っている。 懐かしい感覚に揺られながら、ゆっくりと呼吸を繰り返し、酸素を取り込む。 呼吸をする度に、こぽりこぽりと音がして、水の中を気泡がキラキラと光りながら昇っていく。 水面がどこにあるのか、遠くてとてもわからない。けれど、ここが水の底であるかというと、どうやらそうではないようだった。 脳裏に映るのは、濡れた闇の中に浮かぶ一筋の光。 未知の世界を怖いと思いながらも、自分がその目映いものに手を伸ばさなければいけないことを僕は理解していた。 ああ、これは胎児の夢なのかもしれない。 母胎の中で、僕は永い夢を見ている。 この世に生を受けて育ち、成長の過程で人を愛し、愛した人を失って、自らも死に、生まれ変わる。 廻る生命の旅の途中で、僕はただ足を止めてしまったに過ぎない。 ──アスカ。 懐かしい響きだ。この声の主は誰なのだろう。 声を出そうにも、ただいくつかの気泡がコポコポと吐き出されるだけで、望む音を奏でることができない。 あてもなく揺蕩いながら、僕はただひとつの個体として生きるために、その声に向かって全身全霊をかけて語りかける。 大丈夫だよ。準備さえ整えば、僕はまたそこへ辿り着くんだ。 ねえ、だから──。 「……アスカ、アスカ」 耳元に届いた声に、揺らいでいた意識が急速に呼び戻される。随分遠くへと行っていたような感覚がした。 覚醒していくうちに、自分が今どういう状態であるかを思い出す。 幼い頃に作ったシャボン玉のように、儚く微かな記憶。サキに対して抱いていた淡い恋心。その想いが叶ってから過ごした煌めく日々。そして、全ての喪失。それから行く宛てのない旅をするかのように重ねてきた、四日間の契約。 走馬燈のように駆け巡る記憶に導かれるまま、僕はまた世界の片隅へと辿り着いた。 「ごめん。起こすつもりはなかったんだけど」 様子がおかしい気がしたから。 耳元で聞こえる申し訳なさそうな声に、自然と笑みがこぼれた。 「ありがとう。おはよう」 ゆっくりと瞼を開けて、僕を包み込む温もりの主に挨拶を向ける。 真摯な眼差しはいつも不安定な僕の心を優しく射抜く。 この人といることが居心地が悪いと言えば、全くの嘘になる。穏やかな時間は、忘れていた遠い日常を喚起させる。 朝起きて、日々の営みの歯車を一周分回し、また夜に還る。一連のルーティーンを繰り返しながら、人は少しずつ成長し、緩やかに死へと向かっていく。 積み重なる時間の連鎖に揺られながら、抗うことなく生を享受すること。それがどれだけ尊く、どれほどの意味を持つものなのかを、知らないわけではなかった。 寝返りを打った途端、腹部に違和感を覚えて思わず呟く。 「お腹、空いた……」 素直にそう口にした僕を見下ろして、ミツキは小さく笑う。 かわいいな、という低い囁きが耳朶を軽く刺激した。 「そうだな。起きようか」 そっと頷くと身体に回っていた腕の力が緩む。けれど、目に見えない何かはずっと僕に纏わりついているように思えた。 明確な意志を持った、優しい陽だまりのような感覚だ。ゆっくりと深呼吸をしてから起き上がる。 僕たちは最後の朝を迎えていた。 二人で円卓を挟み、朝食をとる。ミツキが作ってくれたカフェオレは、本当に香りがいい。濃いめに淹れたコーヒーと小鍋で温めたミルクがカップの中で優しい色を織り成している。口に含んで飲み込むと、胃の中を優しく満たしていく。 今までの僕は、ユウの住むマンションにいながら、サキのところへ行きたいと何度願ったかわからない。地面よりもずっと天上に近いあの場所が、死後の世界に繋がっているように錯覚していたから。 けれど今こうしてミツキと過ごす穏やかな時間は、緩慢に僕をこの世界に縛りつける。 地に足をつけて呼吸をする。それがどれだけ大切なことかを、ミツキは僕に教えようとしてくれている。 かつて共に過ごした四日間で、僕はミツキからひたむきに向けられた愛情を受け入れるふりをして拒んだ。それにもかかわらず、その不満をぶつけることなく今もまた関わろうとしてくれる。 こうして僕と一緒に過ごしていることを、ミツキは一体どう思っているのだろう。

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