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the last act. Plastic Kiss side A 〜the 4th day 8

僕が高校生の頃、サキが自分の部屋でプラナリアを飼育していた時期があった。サキは大学の授業でこの不思議な生物を研究したことがあったらしく、何匹かの個体を自宅に持ち帰っていた。 ナメクジに似て非なるこの生物が、僕はとても苦手だった。黒い布で覆われた水槽を極力視界に入れまいと、視線を合わせないようにしていたことを思い出す。 いつの間にかあの部屋から姿を消した水槽は、この研究室に移っていたのだ。 プラナリアは自らの体を切って増殖する。きれいな水と時折与えられる餌さえあれば、余程の悪環境でない限り、死に絶えることはない。 つまり、ここにいるのは紛れもなくサキの部屋にいたプラナリアだ。 「沙生先輩が育てていたプラナリアは、今もここで生き続けてる。とても神秘的じゃない?」 そう言って、彼女は指先で愛おしむように黒い布に触れた。その覆いを捲らないのは、きっと僕への配慮に他ならなかった。 「あの人は亡くなってしまったけれど、遺していったものもたくさんある。この水槽は、そのひとつ。ここで行なっている研究もそうよ」 彼女はそう言って、大きな目で促すように僕を見つめた。だから僕は、彼女の求める答えを口にする。 「抗ガン剤耐性の原因となる、有害物質排出タンパク質の機能を解析すること」 「そう」 よくできた生徒を認めるかのように彼女は頷き、口角を上げた。 僕は彼女の手が掛かる黒い布の中に存在するものを、恐る恐る想像してしまう。 呼吸器官を持たないプラナリアは、体表で酸素を取り込む。静かな研究室の中で、この生物は音を立てることもなく密やかに生きている。 「あと少しで臨床段階に漕ぎ着くことができる。この研究が進めば、必ず助かる生命が増える。あの人と過ごした想い出も、好きになったことも、私は全てを受け容れていきたい。だから、ここで研究に勤しむことができる」 彼女は真っ直ぐに僕を見る。その瞳はやや青みを帯びていて、凛とした眼差しは強く美しい。 サキが遺したものを継いで生きること。サキの描いた軌跡を後世へと繋ぐこと。それが、彼女の選択した道なのだ。 「あなたが無事で本当によかった。だって、あなたは沙生先輩の希望だったから」 ああ、違う。確かに、僕はサキの希望になりたかった。けれどそれは叶わなかった。 他の誰でもない。僕が、サキを死に至らしめたのだから。 「残り少ないわずかなサキの余命を、僕が奪ったんだ」 胸の痛みを絞り出すようにそう告げれば、彼女はほんの少しだけ目を細めて首を傾げる。以前よりも短くなった髪が、さらりと揺れた。 「本当にそうかしら。これからどうするべきか、あなたはもう答えを手にしてるんじゃない?」 謎掛けのようにそう口にして、彼女は愛おしそうに水槽を見下ろした。 僕は顔を上げて室内を見渡す。遺伝子工学の研究室は、一見無機質のようで、たくさんの希望に満ち溢れている。ここで生まれた成果は、やがて多くの人命を救うのだろう。 「沙生先輩が大切にしていたあなたは、こうして生きている」 ──生きてくれ、飛鳥。 それが、サキの遺した最期の言葉だった。 あの鳶色の瞳を想い出して記憶を辿り、僕は螺旋の階段をひとつずつ降りていく。 物心ついた頃から傍にいた幼馴染み。帰宅の遅い母を待つことしかできなかった僕にとって、隣に住むサキは僕を取り巻く世界の大部分を占めていた。淋しさを埋めて余りあるほどに魅力的な遊び相手であり、いろんな知識を与えてくれる優秀な教師でもあった。幼かった僕は、いつもサキへの憧れを胸に抱きながら成長してきた。 そして、この想いを受け容れてもらってから過ごした煌めく日々は、今も容易に想起することができる。 恋人同士になってから経験するいろいろなことが目新しくて、僕たちは互いに夢中になっていた。いや、今となってはサキがどう考えていたかはわからない。けれど少なくとも、僕にとってサキは掛け替えのない存在だった。 サキが遺してくれた想い出を心の中でひとつずつ反芻しながら、僕は口にする。 「……少しの間だけ、一人にさせてもらってもいいですか」 「ええ、どうぞ」 僕の願いを聞き入れた彼女は、静かに扉を開けて出て行った。 人の気配がなくなった研究室で、ただ一人。僕はここに来た記憶を呼び覚ます。 今でも、サキと過ごした時間を昨日のことのように思い出すことができる。 『──沙生』

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