322 / 337

the last act. Plastic Kiss side A 〜the 4th day 9

夜の帳が下りたキャンパスをすり抜けて、僕は一人でここまでやって来ていた。 近頃毎日のように降り続けていた雨は、夕方から止んでいた。湿気を含んだ空気の匂いは、目に見えない生き物の気配を感じさせる。 生物には水が必要だ。だから、雨を疎ましく思わない。 沙生が以前そう言っていたことを思い出す。 僕が大学生になって、二ヶ月余りが経つ。沙生は生物理工学部博士課程に進み、以前よりもますます研究に掛り切りになっていた。 それが淋しくないと言えば全くの嘘になる。会えない日々が続くと、沙生が手の届かないほど遠くへ行ってしまいそうな気がするから。 それでも、僕は崇高な理念を持って研究に勤しむ沙生のことを少しでも応援したかったし、邪魔をしたくないと思う。 僕は沙生にとって少しでも良い恋人でありたかった。 『飛鳥、どうしたの』 小さくノックをして呼びかけると、沙生は少し慌てた様子で出てきた。僕が突然やってきたことに驚いているようだった。 『ごめん、何でもないんだ。忘れ物を取りにきたんだけど、沙生が近くにいると思うと、どうしても顔が見たくなって』 そう告げると、沙生は表情を和らげた。 『よかった。何かあったのかと思った』 『ううん。びっくりさせてごめんなさい』 昨日に引き続き、今日も研究室で一人夜を明かすつもりだ。沙生からそんな連絡を受けていたから、その事実を確認することができて、僕は少し安堵していた。 もしも、沙生が僕に嘘をつくとしたら。 そんなことで沙生との関係を壊したくはないけれど、もしも嘘をつかれたとしたら、その先にある真実を知ることが怖いと僕は思う。 研究室で過ごす沙生は白衣がとても様になっていて、いつもより一層眩しい存在に見えた。 夜はとっぷりと更けていて、J棟には人の気配がない。ここの学生とは言え、生物理工学部の者ではない僕がこの専門棟に忍び込むのは、決して歓迎されることではないだろう。 だけど、今日はもう少しだけ言葉を交わしたいんだ。 僕の逡巡を察したかのように、沙生はそっと微笑む。 『誰もいないから、おいで』 導かれるままに、僕は研究室に入る。蛍光灯の下で、初めて見る室内があかあかと照らし出されていた。 清潔な白いブラインドカーテン。立ち並ぶ事務机の上には、ファイルや書類が所狭しと並ぶ。顕微鏡のようであったり、見たことのない外観をしていたりする、様々な器具。白を基調とした内装は、遺伝子工学を研究する場所として僕がイメージしていたものにとても近い。無機質でシステマティックな部屋だ。 沙生が遺伝子工学を研究するのは、医学の発展向上のためだということを僕は知っていた。高尚な研究に勤しむ恋人を、僕はとても誇らしく思っていた。 ふと部屋の奥にある小さな扉が視線に入る。閉ざされたその中にあるものを、沙生が説明してくれた。 『あの奥でマウスを飼ってるんだ』 その白い扉を見ながら、僕はそっと頷く。医学の進歩のために動物実験が重要であることを、沙生から聞いていた。僕たちが動物の肉を食べて命を長らえているのと同様に、普段享受している医療の裏には動物実験が存在する。尊い犠牲を強いるのは人類のエゴだと言う人もいるだろう。けれど、沙生はまた別の見方を僕に教えてくれたことがある。 ──動物実験で得られた成果は、人間のためだけのものじゃない。獣医学にも貢献してるんだよ。 今まで救えなかった多くの命を救うために、何かを犠牲にして未来へと繋ぐ。沙生がしていることはそういうことなのだと、僕は解釈していた。 『実は、これを持ってきたんだ』 ここへ来てからずっと目立たぬよう後ろ手に持っていたものを沙生の前に差し出して、机の上に置く。 手提げの紙袋に入っている白い箱を、僕は慎重に取り出した。緑色の瓶と紙皿、紙コップ、プラスチックのフォーク。 沙生が小さな箱を開けると、苺の小さなホールケーキが現れる。その上にあるのは、チョコレートでできた薄いプレート。 『沙生、お誕生日おめでとう』 驚いたように目を見開いて、沙生はケーキから僕に視線を移した。その表情は、演技ではなく本当に忘れていたことを如実に物語っていた。 『ああ、そうだったね』 今日は沙生が迎える二十五回目の誕生日だ。 僕の誕生日からちょうど一ヶ月が経つ。いつもわずかひと月の間、僕たちの歳の差は五年になり、そして今日でまた六歳の差が開く。 『ちょっとしたサプライズになった?』 『ああ、最高の誕生日だ』 そう微笑んで、沙生は僕の肩を引き寄せた。包み込むように抱きしめられて、その温もりに心から安堵する。 『ありがとう、飛鳥』 この腕の中が、僕の還る場所だ。これからもずっとそうであればいい。

ともだちにシェアしよう!