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act.3 Binding Kiss 〜 the 4th day 3 ※

知らない名前に耳を疑う。聞き間違いかと思ったが、そうではなかった。 「あぁ、ああッ、サキ……ッ」 俺とは違う名を呼びながら、アスカは果てへと辿り着く。震える背中に手をあてて宥めながら、俺は耳元に唇を寄せた。 「アスカ」 「サキ……」 恐る恐る顔を覗き込めば、アスカの瞳は俺を通り越して遥か彼方を見ていた。それでようやく俺は理解する。 アスカ、それがお前の見る夢なんだな。 お前をここまで付き合わせたのは俺だ。俺もお前に付き合ってやるよ。 「早く、挿れて……」 そう促されて潤った後孔に先端をあてがえば、甘えたようにせがんでくる。俺の知るアスカより、なぜだか少し幼く感じられた。 「あ、ん……、ぁ……」 体内に半身を沈めると、アスカは締めつけながら俺を受け容れていった。壮絶な感覚に包み込まれるままゆっくりと律動を始めれば、薄く開いた唇から喘ぎ声がこぼれ落ちる。 「あぁ、あ……ぁッ、きもち、いい……」 アスカは素直に快楽を訴えてくる。気を抜くと引き摺られそうだ。 「アスカ……」 もう一度名前を呼ぶと、うっすらと目を開けてこちらを見る。 「サキ、大好き……」 幸福そうな微笑みに、不覚にも目頭が熱くなった。華奢な身体が壊れてしまわないようにそっと抽送を繰り返しながら、俺はアスカをしっかりと抱きしめる。緩々とした快感が身体の中心から湧き起こり、全ての感覚を浚っていく。 「あ、あぁ…っ、あ……ッ」 甘い声が耳朶を刺激する。アスカの中は熱くうねりながら俺を強く締めつける。決して離すまいというように。 なあ、アスカ。お前にずっとこの夢を見させてやりたいけど。 「そろそろ、いいか」 アスカは泣きそうに顔を歪めてかぶりを振る。 「まだ、だめ……」 お前の身体は、もう持たない。 懇願の声には応えずに、俺は滾る欲望を打ちつけていく。 「ん……ふ、あァ……ッ」 アスカの目から次々に雫がこぼれる。煌めきながら落ちていく輝きは、天使が流す涙のようだ。 「サキ、サキ……愛してる……」 その涙があまりにもきれいな光を纏うから、俺はこう言うしかない。 「アスカ、愛してるよ」 手錠の鎖が耳障りな音を立てる。これは、俺とアスカを繋ぐ絆だ。 奥の敏感な部分を刺激しながら腰を動かせば、アスカは必死に俺に縋りついてきた。 「あ、ん……あぁ、ああ……ッ!」 俺たちは同時に昇り詰める。アスカの中が大きく収縮を繰り返し、腕の中の身体が弱々しく震えた。しがみついていた腕の力がずるりと抜ける。 「……おい、大丈夫か」 顔を近づければ、意識はないが呼吸をしているのがわかった。何度か頰を軽く叩くと、開かれた瞼の間から瞳が覗く。 「……リュウジ、さん……」 どうやら、夢の向こう側からこちらに戻ってきたらしかった。だが、顔色が悪く呼吸も苦しげだ。 「金魚の餌、まだ……」 アスカの言葉に、俺は金魚の存在自体を失念していたことに気づく。 すぐ傍の水槽に目をやると、金魚は悠々と水草の間を泳いでいた。 「リュウジさんがいないと、死んじゃうね」 アスカが、美しい眼差しで俺に訴える。 『ぜったいに、しんだらだめ』 幼い声で奏でられる健気な祈りが耳元に響く。 飽きることなく毎日金魚を眺めていた航太。水槽にペタペタと付いた小さな手形。 アスカは俺の顔に向かって左手を差し出す。 「ねえ、知ってた? 死にたい人は、死ぬ間際にセックスしたいなんて、思わないんだって」 頬にアスカの手が触れる。濡れた感触に、自分が泣いているのだとわかった。 「僕、生命は惜しくない。リュウジさんが死にたいなら一緒にって、今でも思ってる。でも、リュウジさんは大丈夫だよ」 微笑みは儚く滲んでいた。俺の流す涙を拭いながら、アスカは聖母のように優しく微笑む。 「鍵、取って……」 言われるままにベッドの傍らに落ちたズボンのポケットから小さな鍵を取り出す。それを受け取って、アスカは俺の首に腕を回した。 「僕に付き合ってくれて、ありがとう」 思いがけない感謝の言葉に華奢な身体をしっかりと抱き返す。この独特の甘い匂いを、俺はずっと忘れられないだろう。 「アスカ。お前、どうして俺に手錠を掛けた」 顔を上げてそう尋ねれば、アスカは目を伏せて口を開いた。 「すごく大切な人がいたんだ。こうしてずっと繋いでおけば、僕は今でもその人と一緒にいられたかもしれない……」 その瞳がみるみる潤んで、涙がこぼれ落ちる。 ああ、お前も誰かを失っていたんだな。 「リュウジさん、さよなら」 別れのキスを交わしながら、アスカは俺の手を固く握りしめた。愛おしい者を見るような眼差しに胸が締めつけられる。 この4日間、アスカは俺の身体の一部となっていた。だから引き裂かれることにこんなにも痛みを伴う。 唇を離すとアスカは二人を繋ぐ手錠を外した。幾度も金属が擦れたせいで、互いの手首には赤い痣ができていた。 「リュウジさん……僕、起き上がれないかも」 アスカが涙を拭いながらそう訴える。もう身体が限界なのだろう。 「ごめんなさい。ちょっとだけ、寝かせて……」 そう言って倒れ込み、気を失うように眠りに落ちた。 死んだように寝ているアスカの髪を撫でて、俺は携帯電話を手に取る。 穏やかな寝息と水槽のエアポンプが奏でる音が入り混じる部屋で、息を潜めながらリダイヤルを押した。 「相変わらず人遣いが荒いな」 旧知の男を迎え入れれば、玄関先でそんな愚痴を零してくる。表情は険しいがそこまで怒っているわけでもなさそうだ。 「なんで俺が一日に二回もお前の家に来なきゃいけないんだ」 「悪いな。こっちだ」 舌打ちされては謝った甲斐もない。 俺は高尾侑を二階へと連れて行く。寝室を開けると、ベッドにはアスカが静かに横たわっていた。深い眠りについていて、まだしばらくは起きそうにない。 「……おい、換気ぐらいしておけ」 部屋に篭る行為の残り香を鼻が嗅ぎつけたらしい。高尾が殺気立った声を出した。 意識のない人間に苦労しながら服を着せただけでも良しとして欲しいところだ。 「死にたい奴は、死ぬ間際にセックスしたいと思わないもんなんだと」 そう言葉を投げかけると、高尾はベッドに歩み寄りながら口を開いた。 「アスカにそう教え込んだのは俺だ。一年前、アスカが『死にたい』しか口にしなかった時期にな」 どういう手段でそんなことを教えたのかは、想像に難くなかった。 高尾は跪いてきれいな寝顔を愛おしそうに見つめながら、その髪をそっと撫でる。 「……お前、俺のことを全部知ってたんだな」 俺がそう言えば、高尾はアスカを両腕に抱いて立ち上がり、こちらを振り返った。 「お前が俺の噂を聞いていたように、俺もお前のことを聞いていたってことだ」 知っていただけじゃない。お前は初めから全部読んでいた。全てを見据えた上で、試したんだ。 かつて死にたがっていたアスカが、極限状態に追い込まれても自分のところへ戻ってくるかどうかを。 「ひとつだけ、教えろよ」 玄関を出て行こうとする後ろ姿に、俺は声を掛ける。 「サキって、誰なんだ」 もう、こちらを振り返らなかった。 「俺の弟だ」 午前0時。 長い夢から醒めないまま、アスカは俺の前から消えていく。

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