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act.4 Lost-time Kiss 〜 the 2nd day 1

朝起きてからアスカの作ってくれた朝食をしっかりと平らげて、家の中で散々歩との遊びに付き合わされた。少し早めの昼食を終えたところで、歩が退屈を訴え出した。 「お出かけしたい! お出かけしたい! お出かけしたーい!」 駄々を捏ねる声にうんざりしていると、歩が電車の玩具を片手に近づいてきた。 「電車に乗りたい! 光希、連れてけよ」 「こら。連れて行って下さい、だろ」 生意気な口を叩くチビを懲らしめるために、俺は小さな鼻を摘まみ上げる。更に頭のてっぺんをげんこつでグリグリすると、歩は逃げ出してベランダにいるアスカの元へと駆けて行った。 「アスカ、光希が痛いことする!」 「大丈夫?」 洗濯物を干す手を止めて、屈み込んで優しく頭を撫でるアスカに歩はじゃれついている。デレデレした顔が見ていられない。 「アスカ、一緒にお出かけしようよ。お魚とか見たい」 スーパーの鮮魚コーナーにでも行けよ。俺は憎々しくそう思うが、アスカは優しかった。 「水族館? いいよ、行こう」 「わあ、やった!」 跳び跳ねる歩を抱きしめて、アスカは俺を振り返る。 「ミツキ、いいよね」 そんなにきれいな顔で言われては、駄目だと言えるわけがなかった。 三人で電車に乗って、一番近くの水族館へ向かう。電車を乗り継いで一時間ぐらいのところだ。 歩はどうしても水族館に行きたいと言って聞かなかった。 「日曜だから混んでるぞ、絶対」 「いいの!」 電車に乗り込んで、二人掛けのシートに座る。歩は当然のようにアスカの膝の上に乗っていた。 「アスカが重いだろ、こっちに来い」 「いやだ!」 「僕、平気だよ」 ここぞとばかりにべったりと抱きつく歩の身体にアスカが優しく腕を回す。俺はだんだん歩のことが心配になりつつあった。 いくら懐いたところで、お前はアスカとずっと一緒にいられるわけじゃないんだからな。 水族館に着くと予想どおり人は多かった。俺はチケット売場に一人で並び、大人二枚と幼児一枚のチケットを買う。離れたところで手を繋いで待っているアスカと歩は、年の離れた微笑ましい兄弟のように見えた。 人の波に流されながら館内に入ると、目の前に大きなパノラマ水槽が広がっていた。青い水の中を色とりどりの魚が悠々と泳いでいる。 「うわあ!」 歩は歓声をあげながらアスカの手を握りしめて水槽を見上げる。サメやエイが伸びやかに泳ぐ姿に、目をキラキラさせながら見入っていた。 それにしても、よく人が入っている。混雑した薄暗い館内を順路に沿って歩いていると、後方から声が聞こえてきた。 「ミツキ、待って」 振り返れば、離れたところでアスカと歩が人混みに揉まれているのが見えた。こちらに追いつくまで待ってから、俺は勇気を出してアスカの手を取る。 「混んでるから、はぐれるなよ」 初めて繋いだアスカの手は、少し冷たかった。 揺れる眼差しが俺を捕らえる。その視線をかわしながら俺は前に向き直った。 「ありがとう」 後ろからアスカの小さな声が聞こえた。 海獣コーナーで水を被ってしまいそうなほど近くの席から観たイルカショーは圧巻だった。アシカの餌やり体験では、歩は物怖じせずに小さなアジを食べさせてやっていた。 すっかり水族館を堪能できて、歩はとても楽しそうだった。その笑顔に連れて来てやってよかったなと思えた。 「ペンギンほしいなあ。一緒に帰りたいなあ」 オウサマペンギンが行列を作って歩く姿に、歩はうっとりと見惚れている。 どうやらペンギンが一番のお気に入りらしく、べったりと水槽に貼りついてはしきりにペンギンへの熱い愛を口にしていた。 順路の最後はクラゲのコーナーだった。色とりどりにライトアップされたクラゲが、仄暗い水槽の中をゆったりと泳いでいる。 それを見た途端、アスカは子どものように目を輝かせた。 「きれいだね。気持ちよさそう」 傘から伸びた長い足がふわふわと水中を漂う。虹色に輝く姿は確かに繊細で美しくて、こんな狭いところに閉じ込められているのが不憫に思えた。 「ミツキ。見て、ギヤマンクラゲだって。硝子細工みたい」 俺はアスカの手を握りしめながら、水槽には目もくれずにその横顔を見つめ続けた。

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