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act.0 Sanctuary Kiss side A 〜 prologue

サキは僕の世界の全てだった。 きれいで聡明で、凪いだ海のように穏やかな瞳をしたサキ。 家が隣同士で生まれたときから傍にいた六歳上の幼馴染みは、僕の憧れの存在だった。物心付いたときには、既にサキのことが堪らなく大好きだった。 サキが同じように好意を抱いてくれているとわかったのは、僕が十七歳のときだ。本当に嬉しくて、少しでも長くサキの傍で同じ時間を過ごしたいと思った。 僕はサキを追いかけて同じ大学に通うようになり、毎日が楽しくて幸せだった。 思い出すだけで眩しくて目を細めてしまう、煌めく日々。僕は何の躊躇いもなく、その幸せを享受していた。 サキの匂い。鳶色の瞳。甘く優しい声。重ね合う肌のぬくもり。 サキの全てを愛していた。 僕にはサキが必要だった。 他には、何もいらなかった。 『アスカ』 幾度かの呼出音が途切れた後、低く響く声が僕の名を呼んだ。 「ユウ、今大丈夫?」 携帯電話を片手に、僕は歩みを止める。 『大丈夫だ。どうした』 耳元からユウの優しさが伝わってくる。その声に、僕は縋ろうとしていた。 久しぶりに外に出た僕には、朝陽の眩しさも小鳥のさえずりも刺激が強過ぎた。眩暈を覚えてふらつきながら歩き、建物の影に身を潜めてしゃがみ込む。 「少しでいい。会いたいんだ」 何とか絞り出した僕の言葉に、ユウはすぐに応えてくれる。 『アスカ、すぐに行くから待ってろ。今どこだ』 近くにある建物の名前を言うと、ユウはすぐに向かうと端的に告げて電話を切った。 その場に座り込んだまま、僕は俯いてじっと息を潜めていた。 流れる外の景色が眩しくて、目を細める。 ユウの車に乗るのは久しぶりだった。もともと隣人だったけれど、僕が幼い頃にユウは既に成人して家を出ていた。だから、僕たちが会うのは数ヶ月に一度ほど、ユウが実家に帰ってきたときぐらいだ。 サキとは違って僕がユウと過ごした時間はあまり長くない。 ──サキ。 その名前を思い浮かべれば、鉛のように重い哀しみがまた緩々と融け出して、身体の隅々まで広がっていく。 まだ実感が湧かない。考えようとする度に心が身体から乖離して、あてもなく浮遊するような感覚に襲われる。 「……あれから、何日経ったんだろう」 「一週間だ」 ユウの答えを、僕はぼんやりとした頭で聞いていた。まだ、七日しか経っていない。 「ねえ、ユウ。サキは本当に……」 「アスカ。サキは死んだ。お前の目の前で」 僕の言葉を遮って、ユウはステアリングを切る。 本当は、否定して欲しかった。 ──サキは死んでいない。その証拠に、これからサキのところに連れて行ってやるよ。 だけど、いくら待ってもその言葉は出てこない。 僕はサキの葬儀に出られなかった。正確には、その辺りの記憶がすっぽりと抜け落ちていて、自分が葬儀に出ていないことも後から聞かされた。だから、僕にはサキが死んだという実感がない。 眠っているのか起きているのかもわからない、虚ろな日々。 なかなか寝つけなくて、でも朝を迎えればサキが傍にいる気がするから、必死に目を閉じて眠ろうとする。そうして浅い眠りから覚める度に、サキのいない現実を突き付けられる。 そんなことが繰り返されるうちに、僕の中では夢と現実との境界が曖昧になってきていた。 わかってる。サキは僕の目の前で飛び降りた。僕が、サキを殺した。 あの光景が目に焼き付いて離れない。心に(おり)が溜まって息苦しい。 「とりあえず、俺の家に来い」 ユウの言葉に、僕は力なく頷く。 僕はユウに謝らなければいけない。聞いてほしいこともある。 今、縋れるのはユウしかいない。 僕は狭い視野に映る淡い世界の中で、ただ浅く呼吸することに精一杯だった。 だから、気づかない。 ユウが僕をどうするつもりなのかを。

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