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act.0 Sanctuary Kiss side A 〜 the 1st day 1

「何か飲むか」 ユウが指すその何かがアルコールのことだと気づいて、僕はかぶりを振った。 「お酒は飲めないんだ。元々弱くて。それに、僕はまだ」 「……十九歳か」 頭の中で年齢を計算したらしく、ユウは少し微笑んだ。 大きな白いアイランドキッチンのカウンターで、僕は美しい曲線を描くバーチェアに所在なく掛けている。 きっと二十歳になっても飲めないままだろう。僕には大学生になってからこっそり飲んだ缶ビール半分で酔い潰れて寝てしまった経験があった。アルコールに弱いことは自覚している。 リビング全体を囲むガラス越しに、街が遠くまで一望できる。 都心にある超高層マンションの最上階。ユウがこんなところに住んでいることを、僕は初めて知った。 「最近、越してきたんだ。親にさえ言ってない」 そう言いながら、ユウは僕に透明な液体の入ったグラスを差し出す。クリスタルガラスの内側で、細かい気泡が繊細に揺らめいていた。 「これ、何?」 「トニックウォーターだ。アルコールは入ってない」 恐る恐る口を付けると、わずかな苦味と芳香な酸味が口の中に広がった。ライムの強い香りが鼻に抜ける。果汁を多めに搾って入れてくれたのだろう。 ここ数日、ほとんど何も口にしていない。 グラスを傾けてそっと喉に流し込めば、口の中で炭酸が思っていたよりも優しく弾ける。水分が身体の中に染み込んでいく感覚を覚えながら、喉を潤していく。 三分の一ほどを残してカウンターにグラスを置いた僕は、ユウの顔を覗き込みながら口を開いた。 「ユウ」 カウンター越しに、ユウが僕を見つめる。その瞳の色がサキと同じだから、それだけで胸がいっぱいになって泣きたくなる。 「サキのこと……ごめんなさい」 言葉にすれば、涙が溢れてきた。 「僕は、ユウの大切な弟を」 「アスカ。サキは自分で生命を絶ったんだ」 「でも……」 「その話は終わりだ。わかったな」 強い口調に僕は黙り込む。少しの沈黙の後、ユウは表情を和らげた。 「そんなことを言うために、俺を呼んだのか」 ユウと最後に会ったのは、サキが病室の窓から飛び降りた直後だ。あの時ユウが来なければ、僕はサキの後を追っていたはずだった。 『何かあったときは、必ず俺を頼れ』 半月ほど前に、ユウが僕にそう言ったことがあった。今、その言葉に縋って僕はこの人にもたれ掛かろうとしている。 「聞いてほしいことがあるんだ」 何かをしてほしいわけじゃない。ただ誰かに寄り掛かりたかった。そしてこんなことを話せる人を、僕は他に知らなかった。 「サキは、ルイと……」 三歳離れた姉の名前を出しただけで、みっともないぐらいに声が震えた。思わず自分の身体を抱きしめる。 ユウがキッチンを回り込んで僕のところに来てくれた。 「どうした」 背後から両腕をそっと掴まれる。掌から伝わる体温に、少しだけ安堵した。 「ルイと、関係を持ってたんだ」 「サキが?」 その声には、わずかに驚きが含まれていた。 僕も知ったときはすごく驚いたし、絶望の底に突き落とされた気がした。 サキがそんなことをするなんて、本当に信じられなかった。何度も嘘だと思い込もうとした。でもあの頃はまだ幸せだった。サキが生きていたから。 「それだけじゃない。今朝、聞いたんだ。ルイは妊娠してる」 心が不安定に揺らいで、自分の話す声が遠くで聞こえる錯覚に陥る。 「サキが望んでたから、産むって」 サキが目の前で生命を絶ってから枯れるほど泣いて、もう涙は出ないと思っていた。なのに、一瞬で涙が溢れてこぼれ落ちる。 「サキにとって僕は何だったんだろう。ユウ。僕、無理だよ。いろんなものを失い過ぎて、もう無理だ」 「アスカ」 「こうして話してても、自分が自分じゃない感じがするんだ。魂が漂っているみたいな感覚がして、現実をちゃんと見ることができない」 ユウの顔を見上げれば、僕の腕に掛かる手に力がこもる。 「だからお前は、死ぬ気でいる」 ビクリと身体が震えた。ユウは僕の考えを全て見透かしていた。 「大丈夫だ、止めるつもりはない。俺が止めたところでお前の意志は硬い」 真剣な眼差しが、真っ直ぐに注がれる。僕はその言葉にゆっくりと頷いた。 「死にたい……サキのところに行きたい。僕はサキに会って、謝らないといけないんだ」 口にすれば、気持ちがストンと落ち着いた気がした。 「それで、俺に会いに来たんだな」 頬を伝う涙を、ユウの指先が撫でるように掬った。 そうだよ。だから最期にユウと話がしたかった。僕の存在がこの世界から消えてしまう前に、話を聞いてほしかったんだ。 「ユウに迷惑は掛けないから……」 後ろから強く抱きしめられれば、サキの温もりを思い出してまた涙が溢れる。 「ごめんなさい」 あんなに美しいサキの生命を奪ってしまった僕には、生きることは赦されない。だから、ユウに知れたところで僕の意志は揺るがない。 このときまでは、そう信じていた。

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