96 / 337
act.0 Sanctuary Kiss side A 〜 the 1st day 4
すごく蒸し暑い夜だ。
沙生の部屋で、僕はベッドの脇に座っている。エアコンがよく効いているはずなのに、身体に纏わりつくようなじっとりとした汗をかいていた。
今、僕はきっとこれ以上ないぐらいに不安げな顔をしている。
向かい合って座る沙生の眼差しはいつもと変わらず優しくて、いつになく真摯だった。
『飛鳥、話があるんだ。落ち着いて聞いてほしい』
頷いてはみたものの、本当はすごく胸騒ぎがしていて、とても落ち着いていられなかった。
今日は、沙生が先日受けた検査の結果が出る日だった。
左腕がよく痺れる。沙生がそんなことを言いだしたのは、二、三ヶ月も前だろうか。
──飛鳥と手を繋ぎ過ぎなのかもしれない。
冗談ぽくそう言って、沙生は僕に笑いかけてくれた。
──心配いらないよ。すぐによくなる。
でも、左腕の症状は放っておいても治るどころかひどくなる一方みたいだった。この頃、沙生が左腕を上げにくそうにしていることには気づいていた。ようやく近くの病院へ行った沙生は、大きな総合病院を紹介されて、そこで検査を受けた。
もしかすると、治るのに時間が必要な病気なのかもしれない。不安に思いながら、僕は沙生の顔を見上げる。きれいで優しくて、大好きな僕の恋人だ。
『沙生。僕にできることがあれば、何でもするから。本当のことを教えて』
沈黙に堪え切れずにそう言えば、その鳶色の瞳が今まで見たことがないぐらいに揺らめいて、僕は驚く。
『飛鳥。俺の病気は治らないんだ』
『え……?』
どういう意味か、わからなかった。見つめることしかできない僕に、沙生はゆっくりと言い聞かせるように語っていく。
『これは、筋肉がどんどん縮んでいく神経の病気なんだ。今はまだ左腕だけだ。でも、いずれ全身の筋肉が動かせなくなっていく。進行性だからすぐに症状が進むけど、治療法はない。やがてものを飲み込むことや会話もできなくなって……最後には呼吸ができなくなる』
僕は淡々と話す沙生の顔を呆然と見ていた。
一体、何の話をしているのだろう。
沙生は僕に病名を告げる。それは全然聞いたことのないもので、無機質なアルファベットの羅列だった。
『はっきりとは言えないけど、これまでの症例から考えて、あと三年から五年らしい』
沙生の声がわずかに震えた。何が、とは訊けなかった。
『……嘘だ』
嘘ではないことは、沙生の顔を見ればわかった。それでも、突き付けられた事実はあまりにも残酷で、ひどく現実離れしていた。
『もう俺の傍にいるのはやめた方がいい』
そう告げて痛々しく笑う。どうしてそんなことを言うんだ。
『いやだ』
力を振り絞って言葉を発すれば、乾いた声が出た。こんなにもうまく言葉が出ないのは、悪夢の中にいるからだ。
『飛鳥、よく考えてほしい』
今、目の前にいる沙生がいなくなる。それがどういうことなのか、理解したくない。できるわけがなかった。
『俺はそう遠くないうちに、こうして飛鳥の涙を拭うことも』
沙生の手がゆっくりと伸びてきて、脆いガラス細工に触れるみたいにそっと掌を頬に押しあてられる。その親指が僕の目の下を撫でて、濡れたその感触にいつの間にか自分が涙をこぼしていることを知った。
『飛鳥を抱きしめることも』
それ以上聞きたくなくて、僕は首を振る。
『何ひとつできなくなって、死ぬんだ』
急にはっきりとした言葉で宣告されて、心臓が音を立てて鳴り響いた。
覚悟を決めた目で僕を見る沙生はすごくきれいで儚くて、今にも消えてしまいそうだった。
僕は両腕を伸ばす。沙生をこの世界に繋ぎとめるために。
『僕は沙生から離れない』
しっかりと背中に腕を回して抱いたその身体は、いつもと同じように柔らかな熱を持ち、心地好い。
『僕が沙生の涙を拭う。僕が沙生を抱きしめる。だから、何も問題ないよ』
沙生の背中が震えた。
『お願いだから、傍にいさせて……』
少しだけ腕の力を緩めて、僕は沙生の顔を覗き込む。僕の大好きな鳶色の瞳が、濡れたような光を湛えていつもよりたくさん煌めいていた。
『沙生、愛してる』
もしかしたら診断は何かの間違いで、そんな病気ではないのかもしれない。奇跡が起こって、これから回復していくかもしれない。
だから、祈りながら僕は沙生を支えたい。
愛しい沙生の唇にキスをする。数え切れないぐらい僕の名を呼んで、たくさんのキスをくれた唇は、ほんのりと温かくて優しい感触がした。
いつか終わりが来るなんて、考えたこともなかった。
沙生、沙生。どこにも行かないで。だって、僕は沙生がいないと──。
ともだちにシェアしよう!